「世界で最もイノベーティブな洗剤会社 メソッド革命」メモ(Key:ライトグリーンとダークグリーン, 逆さまの顧客ピラミッド, 短針に従え, 美意識の時代)

Posted on 2014年5月7日. Filed under: 未分類 | タグ: , |

「世界で最もイノベーティブな洗剤会社 メソッド革命」(エリック・ライアン, アダム・ローリー)の読後メモ。

メソッド(本国サイト methodhome.com 日本サイト methodhome.jp)の2人の創業者エリック・ライアン(Eric Ryan)とアダム・ローリー(Adam Lowry)が書いた本。同社は極力環境負荷の少ない成分を使ったクリーニング製品を、香水瓶のようなデザイン性の高いボトルに詰めて売っているメーカー。大手企業の安売り製品がシェアの過半を占めていた市場に穴を明け、飛躍的に成長を遂げている企業だ。(TBD:ここに後日メソッドがどんな企業なのか詳細説明を入れるかも。)

本書では、メソッド社のビジネスの要は「『ライトグリーン』な殻(気さくで親しみやすい魅力)をまとった『ダークグリーン』なビジネス(厳格な環境保護の原則)」だと説明されている。

顧客の徹底的な理解(「僕ら(企業)が知っていることはすべて、あなたから学んだ」「あなたがすでに獲得した支持者については、あなたより詳しい者はいない」)を重んじるブランド構築と敏速なイノベーションが強みで、People Against Dirtyという顧客オーガナイズの仕組みもある(が、書籍内で突っ込んだ説明がなかったのが残念)。

以下、8つのポイントに絞って引用とメモ(順番は必ずしも本の記述通りではない)。
(さらに…)

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「情熱商人 ドン・キホーテ創業者の革命的小売経営論(安田隆夫)」読書メモ(Key: 見落とし感, 主語転換, 深掘り展開, 社員を個人商店主に)

Posted on 2014年3月16日. Filed under: 読書, 企業経営 | タグ: , , |

「情熱商人 ドン・キホーテ創業者の革命的小売経営論」(安田隆夫, 月泉博)、読了。

ドン・キホーテ創業者の安田隆夫さんの本だ。

ドンキという店について不思議に思っていたのは“深夜についつい店内を徘徊したくなってしまうこと。そしてつい要らないものを買ってしまうこと”だった。
ゴチャゴチャした商品陳列や饒舌なPOPが特徴的な同店だが、この本を読んでインスピレーションの源泉や、安田氏が強い意志の下で来店客の観察とさまざまな試みを反復しながら今のスタイルに到達したのだとわかった。また「MEGAドン・キホーテ」という店舗形態についてもドンキの大型版だろう…ぐらいに考えていたのだが、もっと狙いは深遠らしく、いろいろ面白い本だった。

以下、メモ&引用。

  • 「泥棒市場(ドン・キホーテ創業者である安田隆夫氏が最初に立ち上げた小売りの店)には売ろうという気迫があふれていた」。泥棒市場での客の潜在的な嗜好を必死で探り、絞り出した策が「ナイトマーケットの発見と深夜営業」「圧縮陳列」「手書きPOPの洪水」という、今のドン・キホーテにつながる3大手法だった
  • 深夜営業について。静かな住宅街に煌々と灯る泥棒市場の看板照明の下で、安田氏は一人ゴソゴソと検品や品出し作業をしていた。すると道行く人から「何をしてるんですか?」「店はまだやっているんですか?」という声がかかる。1円でも売上が欲しかったので「やってますよ」と。深夜の来店客は、多くがアルコールが入っているせいか、ゴミの山のような商品でも逆に面白がってよく買っていった
  • 人の心理は非合理で不可解なことが多い。特に買い物は自由度の高い行動だからその傾向が強まる。さらに夜間ともなれば少し背徳的で猥雑な要素が入り込む。だからそれに応えるサプライズやエンターテイメントが必要だ
  • ドン・キホーテのコンセプトは「CV+D+A」。CV(コンビニエンス)、D(ディスカウント)、そしてA(アミューズメント)である
  • 「今繁盛している店には、(たとえそれが生活利便ニーズ対応の業態であっても)いずれも売り場にエンターテイメントな〝お祭り〟の要素が色濃い。たとえば、ホームセンターの「ハンズマン」(本社・宮崎県都城市)、食品スーパーの「ハローデイ」(同・福岡県北九州市)、そしてわがドン・キホーテである」
  • 来店客に手の内を全部見せるな。常に“見落とし感”が残るように演出し、後ろ髪を引かれながら店を出る気持ちを与え、近いうちにもう一度来たいと思わせなければならない。そのさじ加減が難しいのだ
  • 客との関係では主語を転換して考えよ。そして競合店との立場においても、相手を主語として「これをされたらかなわない」ということを徹底的に突き詰める。主語を転換すれば、アイディア(戦略)の精度やその後の具体的施策(戦術)の精度は飛躍的に高まる
  • ドンキのMD(マーチャンダイジング)は一見経済合理性のない品揃えを平気で行う。たとえばつけまつげやカラーコンタクトなど需要が限られる商品をバリエーション豊富に深掘り展開。アパレル部門では売上の3割をコスプレ衣料が占める。通常のDSは流行に左右されない型落ちモノなどを安売りするが、ドンキは流行品に対する過敏さ・執着心が異常に強い。MD的に先鋭的になればなるほどその輝きを増すという独自構造がある
  • 日本は超成熟消費社会であり欧米型ハード(プア)DS業態の成立余地は大きくなかったが、2008年秋のリーマンショック以降は“真正プアDS市場”がかなり拡大。ドンキでもMEGAドン・キホーテ(長崎屋を買収した店舗が主体)で食品売り場を主体にこのプアDS市場を取り込む。しかしこの業態でも、プアDSの対極にあるドンキ流“コト、ココロ志向”のディスカウント要素の注入が差異化と競合優位の決め手になるだろう
  • 株式店頭公開(1996年)の翌年に出店した新宿店(第8号店)は大ブレイクし、事業全体にも大きな意味をもたらした。この店の成功は郊外ロードサイドだけでなく都心をドンキの得意立地に変えた。また都心店舗での先鋭的イメージ発信で、郊外店の売上も共振・成長し、都心と郊外の二本立て出店がその後基本戦略に。また新宿店は「立地創造」も。新宿の職安通り一帯は夜の女性一人歩きがはばかられるような裏通り的街区だった。が、ドンキ新宿店が核となって周りに飲食店・物販店が集積され、夜も賑わう商業街区へと徐々に変貌していった
  • 会社が大きくなればなるほど、あえて組織を細分化し“小さな燃える集団”にリメイクし続ける努力を惜しまない
  • 小売業にとって営業の現場は最も神聖で重要な場であり、そこで働く人たちは大いに敬意を表されるべき。しかし現実に日本の小売業従業員はお客様や世間からのリスペクトされにくい。だからこそ経営者が真摯に現場をリスペクトし、盛り立てる必要がある。ドン・キホーテは(…)流通業界きっての属人的企業である。私はそれを、大いに誇るべきことだと思っている
  • 現場に大きな権限を与えるドンキだが、各店がバラバラにならない理由のひとつが「中小ラックジョバー型問屋」のフル活用。現在約1000社の取引先のうち2割を占める。ラックジョバーは、ヘアケア、珍味など専門性の高い商品・すき間商材などを主に扱い、売り場づくりなどにも独自のノウハウを提供する中小専門問屋。「圧縮陳列」などの売り場づくりも彼らとの協業があって維持できている
  • 商品部対現場。現場は商品部からの「送り込み」に不満を漏らす。しかし送り込みがなければ今のドンキの店舗は回らない。このトレードオフを解消する方策は「ない」。「止揚(しよう)」とまではいかないが、現場と商品部の前向きなせめぎ合いの下で独自の品揃えを成立させるのが今のドンキ最大のノウハウ。論理的に突き詰めれば間違っているが、実態は正解という世界。その構造はあえてファジーなままでいい
  • これからの時代にフィットする流通企業は「常に変化対応できる柔軟性を第一義とし、あまり売上的なものに拘泥せず、あらゆる意味で質的精度を高めながら持続が可能な有機的組織体」だ。ドンキはすでに基本戦略の軸足を規模拡大主義から業態創造主義へと移した。 仮に売上が1兆円になったとしても、マインドはあくまでも「中小企業」だ
  • 事業では沢山の小さな失敗と、数少ない大きな成功があり、大勝ちによるプラスが小さな負けでの累積マイナスを上回ればいい。ところが人は「負け」には敏感だが「勝ち」には意外なくらい鈍感だ。商売で50万円損をすれば悔しがり、必死でその負けを取り戻そうとするだろう。 しかし100万円儲けるチャンスで50万円売り上がったことを「50万円も儲け損なった」と悔しがる人は極めて少ない。これはダメで、果実を全て収獲できなかったことを地団駄踏んで悔しがれる人こそ本当の勝負師なのだ

最後に、ドン・キホーテの東日本大震災に対する支援事業を紹介した一節を引用しておく。
(さらに…)

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メモ:「ストーリーとしての競争戦略」(Key:非合理なキラーパス、ポジショニング(SP)と組織特殊性(OC)、ダラダラ会議、ストーリーの面白さが組織を駆動)

Posted on 2014年3月11日. Filed under: 未分類 | タグ: , |

ストーリーとしての競争戦略 優れた戦略の条件」(楠木 建)、読了。

博識で強い表現欲をもった経営学者の、すっ…ごく長い雑談という印象。

紙の本だと518ページあるらしい。Kindle版を移動時間などにコツコツ読み進めたが、%表示がなかなか進まないので驚いた。

ストーリーテリングの本を物色しているときに目に留まり、以前話題になったことを覚えていたので興味を持った。最初“ストーリーテリング×企業の戦略”の本かと思い、Amazonのレビューをいくつか読んでみるとそういう内容ではないとわかった。が、興味が湧いたので読んでみた。

主旨をかいつまんで説明するとこうだ。

優れた企業戦略というのはストーリーである(べき)。戦略とは文脈に依存する特殊解で、普遍的なものではない。静止画のようないわゆるベストプラクティスでもない。
ストーリーであるのは起承転結であるからで、「転」にあたる部分はその部分だけを取り出せば不合理だから、他者が見れば不可解であり、そこが模倣への防壁となっている。

この本では戦略の優位性の取り方を説明する部分で

  • SP(Strategic Positioning:よくいわれるポジショニング)
  • OC(Organizational Capabilitiy)

という二つの概念が出てくる。

SPとOCの対比でいえば、経営書として熱狂的な支持を受けた(ぼく自身もハマった)「ビジョナリー・カンパニー2」の主張は、一貫してOCの立場なのだろう(…と思うが後で読み返してみたい)。読んだ人は、あの本の“カリスマ経営者なんか要らん”“まず誰をバスに乗せるのかを決めろ”“ひたすら弾み車の回転を高めよ”といった内容を思い出すとわかると思う。

以下、引用(読み返し用)。

「さまざまな経営資源の中で、「組織特殊性」(firm-specificity)の条件を満たすものを、一般の経営資源と区別してOCといいます。組織特殊性とは、平たくいえば「他者が簡単にはまねできず(まねしようと思っても大きなコストがかかる)、市場でも容易には買えない」ということです。SPがトレードオフを強調するのに対して、OCのカギは「模倣の難しさ」にあります

「他社がそう簡単にはまねできない経営資源とは何でしょうか。組織に定着している「ルーティン」だというのが結論です。ルーティンとは、あっさりいえば「物事のやり方」(ways of doing things)です。さまざまな日常業務の背景にある、その会社に固有の「やり方」がOCの正体であることが多いのです

「競争優位はSPとOCの組合せなのですが、業界が成熟するにつれてOCの占める部分が大きくなっていくのが一般的です」

「数多くのM&Aで成長している日本電産は、ゴーンさんが日産でやったことを永守重信総料理長が何回も繰り返しているようなものです。日本電産はその時点では必ずしも業績が良くない企業を買収します(なぜならば、もともとピカピカの企業であれば高くつく)。ただし、それは往々にして図の右下、つまりかなり良い厨房にあるのに、レシピがはっきりしないため低迷している企業です。左下の企業ではありません。「技術も人材もあるが、経営の問題で業績不振に陥っている企業は立て直しやすい」というのが永守さんの考え方です。そうした被買収企業に永守料理長が独自のはっきりしたレシピを導入していくことによって、急速に業績を好転させ、グループ全体の増収増益につなげています。SPとOCのうまい組合せを意識した戦略です

「トヨタがスピーディーに製品を開発できる一つの理由は、その初期段階から、部品間のかみ合わせの良さやつくりやすさを織り込みながら個々の部品が開発・設計されていることにあります。つまりできるだけ前工程で調整の質と量を増やすことが重要で、これを「フロントローディング」(前倒し)といいます。フロントローディングを進めるためには三次元CADのようなITツールが有効な面があります」

「ニッチの戦略は多くの会社でしばしば議論に上ります。しかし、多くの場合は「ニッチに特化する」といった次の瞬間に、「年間二〇%成長をめざす」というように、筋が通らないというか、論理がねじれた話になりがちです。本当にニッチに焦点を定めて無競争による利益を追求するのであれば、成長はめざしてはいけないことだからです。(…)ストーリーの最後にくるシュートは、あくまでも「なぜ儲かるのか」という論理にこだわるものでなくてはなりません。最後のところでの利益創出の論理が甘くなると、ストーリー全体が台無しになってしまいます

「アルバックは真空技術を使って、液晶や太陽電池などの先端分野の製造装置を開発し製造する企業です。生産性向上のためには会議の数を減らし、時間を短くしたほうがよいというのが常識ですが、アルバックは数多くの会議を、しかも時間をかけて「ダラダラやる」ことにこだわっています。独自の技術開発に事業の軸足を置いてきただけに、かつてのアルバックは技術者が自由闊達に最先端の技術を追求する会社で、技術者一人ひとりがカスタマイズした製品を取引先の要望に応じてつくり込むというやり方がとられていました。しかし、薄型テレビや太陽電池など巨額投資が必要なハイテク業界では、汎用的な製品に戦略的に投資をして、同じ装置を大量に売ることが大切になります。 その一方で、用途市場の変化が激しく、基盤となる技術にしても不確実性が高いので、どの領域に集中するかはトップダウンでは決められません。そこでアルバックは技術者の行き過ぎた個人主義を抑制し、現場の技術者全員を巻き込んだ徹底した議論を通じて合意形成をするために、「ダラダラ会議」を頻繁に開くというスタイルを意識的にとっています

「全員に愛される必要はない。この覚悟がコンセプトを考えるうえでの大原則です。誰に嫌われるべきかをはっきりさせると、その時点で確実に一部の顧客を失うことになります。しかし、全員に愛されなくてもかまわないということ、これが実はビジネスの特権なのです

「サウスウエストの「空飛ぶバス」にしてもスターバックスの「第三の場所」にしても、肯定的な形容詞はどこにも見当たりません。だからこそ、面白いストーリーの発火点となったのです。コンセプトはできるだけ価値中立的な言葉で表現するべきです

「中古本を売ったり買ったりする仕事は、ブックオフのずっと以前から存在していました。業界は淡々と同じことを何十年もやり続けていました。ブックオフの創業前後に大きな環境変化があり、何か新しい外在的な事業機会が生まれたわけではありません。もしブックオフの戦略ストーリーが、それまでの人々、古書店業界の知識を持った人々にとって「良いこと」ばかりで綴られていたとしたら、ブックオフが創業するずっと以前の一九六〇年代か七〇年代にブックオフと同じような企業が登場していても全く不思議はありません。ブックオフの戦略ストーリーが「新しく」「独自」だったのは、それが従来から共有され信じられてきた基準からして、明らかに「一見して非合理」なキラーパスを含んでいたからなのです」

「戦略ストーリーが意図するのは、一目瞭然の派手な差別化ではなく、「似て非なるもの」という差別化

「戦略に関しては、絶対の保証はありえません。その戦略ストーリーがうまくいくかどうか、本当のところはやってみなければわかりません。しかし、論理的な確信を持つことはできます。それは「これだけ情熱を持ってやっているのだから、必ず道は開ける」という情緒的な思い込みではありません。「どうせやってみなければわからないから、一か八かの勝負だ」という冒険でもありません。ストーリーが太く強く長い論理でつながっている、だから長期利益に向かって動いていくはずだ、という論理に基づく確信です。 自らのストーリーに対する論理的な確信を得るためには、構成要素のつながりの背後にある「なぜ」を突き詰めていくしかありません。何をやるか、いつやるか、どのようにやるか、戦略はさまざまな問いに答えなければなりませんが、何よりも大切な問いは「なぜ」です

ストーリーの面白さは、組織における戦略の実行と深くかかわっています。(…)全員がストーリーを共有しているということが戦略の駆動力になっています。言葉はちょっと悪いのですが、一つのストーリーをともに担っているという「共犯意識」が大切なのです

「ただでさえ忙しい中で、リーダーはどうしたらストーリーを伝えるための努力を続けられるでしょうか。自分で面白いと思えるストーリーをつくることに尽きるというのが私の意見です」

納得できる箇所も多数あったがツッコミを入れたいところもそこそこあり、最終的に著者の見解に全面賛成はできなかった。

が、経営書を読む時間を持つメリットは、著者との「脳内対話」に大きな意義があると思う。言葉を交わす中で、主張が合わなくても重要な示唆を与えてくれる人がいるように、この本はいくつかの強い刺激を与えてくれた。頭の切れる人と長い床屋談義をしたような感じがする。

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「電子書籍奮戦記」(萩野正昭):電子書籍が持つかもしれない「書く」「読む」自由の話

Posted on 2010年11月30日. Filed under: 未分類 | タグ: , , , , |

株式会社ボイジャー社長、萩野正昭さんの「電子書籍奮戦記」を読んだ。

内容は、ぼくにとっては「電子書籍」をビジネスをするための「奮戦記」以上のものに感じられた。
漠然としたベクトルを食える仕事として立ち上げること、好きを突きつめていく過程での孤独や出会い、そして経営することの重みなど。

MacintoshのHyperCardの話やネグロポンテのベストセラー「ビーイング・デジタル」の話など、壮年以上でIT関連業界にいる人なら、同じ時期に自分が何を考えどんな選択をしたかを重ねながら読むと、さらに面白さが深くなると思う。

沢山の折り目をつけながら読んだので、特に印象に残ったところを引用する(強調はぼくによるもの)。

自分にとって些細な指摘が、ある人にとって大きく響くこともあれば、根本的に重要な問題と私が思うことに、誰も関心を払ってくれないこともあります。その隔たりがあまりに大きいので、心が平静でいられなくなる。ものすごい幸福感と絶望とが常に隣り合わせに存在し、その振幅に心が翻弄されてしまうのです。とくにメディアに従事する人たちに自分の問いかけが響かないときなど、一体何をもってその人たちに対峙すればいいのか、視界が閉ざされてしまったように感じることが私にもあります。」(54ページ)

「ボブ・スタインがコロンビアとハーバードの両大学で教育心理学を学んだこと、学生時代から政治に身を投じていたこと、毛沢東主義者であったこと、卒業後も社会変革をめざして皿洗いなどをしながら共産主義の情報宣伝活動をつづけていたこと、ビラまきコミュニケーションに限界を感じたこと。(…) やがて彼は、革命思想の普及には人がものを理解できるようにする術がもっと必要なのだと考えるようになります。ちょうどそのころ、メディアラボでの次世代電子コミュニケーション技術の研究を知り、そちらへ進路を向けていったのです。(…) 百科事典の将来について、ボブ・スタインは論文を書いていました。(…) そんなとき、パーソナルコンピュータの生みの親とも言われるアラン・ケイが書いたものの中に「ダイナブック」という考えがあるのを彼は見つけていました。ダイナブックは、将来のパーソナルコンピュータのありようを明確に指し示していました。(…) ボブ・スタインはたまらずにアラン・ケイにコンタクトをとったそうです。アラン・ケイは快諾し、すぐに面会に至ったとか。そればかりか、目の前でブリタニカに提出した例の論文を読み切って、一緒に働かないかと申し出たのです。」(60ページ)

(さらに…)

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メモ:「未来を変えるためにほんとうに必要なこと」(アダム・カヘン著)から

Posted on 2010年5月1日. Filed under: 読書 | タグ: , |

未来を変えるためにほんとうに必要なこと」(アダム・カヘン著)を読んだ。

手ごわい問題は、対話で解決する」という著作もある彼の新刊で、来日した彼のセミナーに参加した際にいただいたもの。

「未来を変えるためにほんとうに必要なこと」(しかも原題は”Power and Love”)というタイトルでは、もらいでもしない限り手に取ることはなかったと思うが、セミナーでのカヘン氏の「愛(切り離されているものをつなげようという衝動)」と「力(自己実現の衝動)」という話は新鮮だったので読んでみた。あまり構造的な内容ではないけど、彼がファシリテーターとして関わった南アフリカ、コロンビア、イスラエルなどのプロジェクトの話もうまく混ぜ込まれていて面白かった。

引用(強調はぼく)と、最後にちょっとだけ感想を。

「戦争の反対は平和ではない。創造だ!」
むずかしい社会問題に取り組むには、戦争でも平和でもない方法、集団による創造(コレクティブ・クリエーション)が必要だ。

愛は、力を退行的ではなく生成的なものにする。
力は、愛を退行的ではなく生成的なものにする。
したがって、力と愛はまさに補完的な関係にある。それぞれが持てる可能性をすべて発揮するには、相手が必要なのだ。力だけを重視した「テラ・ヌリウス」の世界観がまちがっているのと同時に、「愛こそはすべて(オール・ユー・ニード・イズ・ラブ)」の世界観もまちがっている。

愛なき力は無謀で乱用を招き、力なき愛は感傷的で実行力に乏しいものです」(キング牧師の言葉)

白人実業家、ヨハン・リーベンバーグは、驚きと喜びを交えながら、それまで敵対者だった黒人リーダーたちとの会話を後に振り返っている。
「これは私にとって新鮮でした。特に、彼らがとてもオープンなことが。『いいか、いつかおれたちが支配する時代になれば、こうなるんだ』とばかり言うような連中ではありませんでした。『なあ、どうなるんだろう。話し合おうじゃないか』と言える連中でした」

「『AがBにBの利益に反する方法で影響を及ぼすとき、AはBを支配して力を行使している』という言い方で力を定義することは誤りだった。支配としての力は力の種類の一つにすきない」
「させる力」は「する力」の部分集合(サブセット)なのだ。

社会にとっては好都合だが、自分にとっては不都合な新聞記事を読んでも幸せでいられるようになったとき、自分が成熟しつつあると悟った

「愛とは、自我の外にある何らかの存在に対して自我を目覚めさせる一つの力である」

「力のある者とない者の争いから手を引くということは、力のある者の味方をするということであり、中立ではない」
力の無視は、世間知らずの単純さか、ずるさの証拠なのだ。

オットー・シャーマーは、彼が「ダウンローディング(downloading)」と呼ぶもの、つまり、いつも話していることを話し、いつもしていることをすることによって現状を再現することは、礼儀正しく、対立を避けられるが、偽物の全体性(ホールネス)を生み出すと指摘している。他者と、あるいは高次の自己(ハイヤーセルフ)と一体化し、自己を超越したと思い込むかもしれないが、たいていは、もっと小さい自己、つまり自我の偽りの投影を経験しているにすぎない。力なき偽りの愛の裏に潜むのは、自己を欺く、利己的な、愛なき力である。

「内心どう思っているかはわからないけど、少なくとも礼儀をわきまえている人たちの方がましじゃないかな」と私が言うと、彼女は答えた。
「違う。人種差別は露骨なもののほうが闘いやすいの
隠された力は、はっきり見える力より対処するのがむずかしい。

「緊張状態にある価値観の『間をとる』、あるいは二つを『組み合わせる』のは、いかにもすばらしいが、実際にはかなり難しく、いつもとは違う特別な思考様式と行動様式が要る」「対照的な価値観が非常に対立しているように見えるのは、今ある一瞬に両方が提示されるからだ。現実には、時間はこうした対照に折り合いをつけるものなのである
力と愛の両方を発揮することを学ぶというのは、二本の脚で歩くことを学ぶのに似ている。(…)一本を先に動かし、次にもう一本を動かし、つねにバランスを崩しているのだ──もっと正確に言えば、つねに動的なバランスをとっているのだ。

「だれも力について話題にしないときにはつねに、それも間違いなく強い力が存在する。力が話題になっていれば、それは力の衰退の始まりだ」
(…)システムの変化の手段としてのチェンジ・ラボは、より大きなシステムに内在する力のダイナミクスに意識的に対処しないかぎり成功しないだろう。

プロジェクトが終わりに近づいた頃のあるミーティングで、ラビ和解協議会から来ているラビのアズリエルは、協働を通して自分の視点が根本的に変化したことをしみじみと考えていた。
いまわかるようになったこと、そして驚いていることがあります。それは、自分は好きでも他人を配慮しないシナリオよりも、自分では選ばなかったし好きではないものの、自分と自分にとって必要なことが配慮されるシナリオに生きたい、と私が思っていることです
彼が言った後、部屋は神聖な静寂に包まれた──イスラエル人はあまり沈黙しないのだが。これは、私たちの旅路の苦労や試練の数々が報われる恩寵にひたった貴重な瞬間の一つだった。

1993年、私が南アフリカに移住して一週間後、南アフリカ共産党の黒人党首で国民に人気のあるクリス・ハニが、ヨハネスブルクの自宅の外で極右の白人移民によって暗殺された。暗殺犯は、近所に住んでいたアフリカーナ(注:アパルトヘイトの支配層である白人)の女性が犯人の車のナンバーを書き留めておいたためもあり、すぐに逮捕された。が、この事件が流血の暴動沙汰に発展するのではないかとだれもが恐れた。当時のデクラーク大統領は、マンデラに、国営テレビに出演して国民に冷静な対応を呼びかけるよう要請した。マンデラはこう呼びかけた。
「偏見と憎しみに満ちた白人男性が、われわれの国にやってきて、国全体が大惨事の危機に瀕するほど卑劣な行為を犯しました。アフリカーナの白人女性が、われわれがこの暗殺者を見つけ、法による処罰を下せるように、命の危険を冒しました」
マンデラは、「黒人 対 白人」から「南アフリカ国民が一丸となって自分たちを攻撃する者に対抗する」という構図に変えることに成功した

「ソーシャルイノベーションは新しい着想から生まれるとはかぎりません。人間関係の新しいネットワークから生まれるのです」
オックスフォード大学のアンジェラ・ウィルキンソンはそう言う。北アイルランドの和平プロセスで重要なファシリテーター役を何十年も果たしてきたマリ・フィッツダフも同様の発言をしている。
「このような状況では、解決策はめったに問題になりません。北アイルランド紛争の解決策は、何年もファイルキャビネットで眠っていたようなものでした。必要だったのは、最後にはそうなったわけですが、主役たちが一緒にファイルキャビネットに向かうことでした

「速く歩きたければ、一人で歩け。遠くまで歩きたければ、だれかと一緒に歩け」

だれかと対立し、勝ち目がないと感じ、傷つくのを恐れるとき、私は自衛力を奮い起し、引き下がる。その対立を処理する能力はすっかり鳴りを潜め、私が動かさなければならない空間の意識は縮小し、身動きがとれなくなってしまう。これは、統一をめざす愛を弱らせる力だ。一方、だれかと団結しようと夢中になっているときは、相手を傷つけ、結束を壊してしまうことを恐れ、あえて動かない。これは、自己実現をめざす力を弱める愛だ。

心理学者のロバート・キーガンは、あらゆる個人の発達の最大の原動力は、「自分の特殊性や方向の自発的な選択や個人の完全性を味わうために、独立や自律に焦がれる気持ちと、何かに含まれたい、何かの一部でありたい、何かに近づきたい、何かと結びつきたい、何かに保持されたい、だれかから認められたい、だれかと一緒に歩きたいという気持ちとの間の、生涯にわたる緊張」にあると述べている。

自分自身を癒そうというとき、傷があることは幸いだ。自分のどこが敏感で弱く、同情的な関心を必要としているかを教えてくれるからだ。

私たちが持てる力と愛を余すところなく発揮するのを妨げているものは何だろうか。
恐れだ。だれかを怒らせたり、傷つけたりするのを恐れるから、断固とした態度や力を抑制するのであり、気まずい思いをさせられたり、傷つけられたりするのを恐れるから、オープンさや愛を抑制するのだ。私たちは、恐れに私たちが完全になるのを妨げる行為を許してしまうという機能不全に陥っている。
私たちが進むべき道は、この恐れがない道ではなく、恐れを通り抜ける道だ

(さらに…)

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「吉越式会議」メモ:早朝会議は「ほったらかしになっていた、こうあるべき」をやりきる原動力

Posted on 2010年1月22日. Filed under: 未分類 | タグ: , , |

吉越浩一郎(元トリンプ社長)さんの「吉越式会議」、読了。というか2.5回読んだ。

ぼくは吉越さんが現役時代からのファンで、「早朝会議革命」(これの著者は吉越さんではないが)「2分以内で仕事は決断しなさい」「革命社長」は再読すべき本としてデスク上に置いてある。「2分以内で…」は社員全員に読ませた。

トリンプ退任後、ラッシュのごとく出ている吉越さんの本には食指が伸びなかったが、この本は吉越ウェイの最重要なプラクティスである「早朝会議(MS会議)」についての本だから見逃すわけにはいかなかった。

先に結論を言うと、これまでの本と重複はあるが、この本だけの重要な収穫があった。特によかったのが、「早朝会議の議題は何を解決するものか」について、より踏み込んだ説明があったこと。読んでよかった。

以下、重要なところ。
(吉越本を味読してしてきたぼく向けであって、万人向けではないかも)。
(さらに…)

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[book] 悪夢の撮影日誌

Posted on 2008年12月28日. Filed under: 読書 | タグ: |

年末。
毎年行ってたサムイ島を久々にやめたら仕事がすごいことになってしまい、テント持って山も行けてない。

せめて長期休暇らしいことを少しはしようと、大量の積ん読リストの中から1日1冊本を読もうと決めた。
で、感想を書く。

ずっーっと積ん読してたトム・ディチロの「悪夢の撮影日誌―映画をサンダンスで売る方法教えます」を読んだ。

トム・ディチロは映画監督で、

IMDbを見ると最近はTVドラマの監督なんかをしながら映画資金を稼いでいるんだろうと思う。

彼の映画「リビング・イン・オブリビオン/悪魔の撮影日誌」 はぼくにとっては忘れられない映画。今調べてみると94年あたりに公開されたらしいが、ぼくはこの映画を、まだ六本木ヒルズなんかなく、今よりずっと薄汚い印象のあった六本木の、当時西武がやってたレコード屋「WAVE」ビルの地下にあった映画館で、オールナイトで観たと思う。
あらすじは以下のサイトにある。

当時トム・ディチロなんて映画監督は知らなかったと思うけど、深夜に観たのがよかったのかびっくりするほど面白い映画で、その後彼をウォッチするようになり、彼のデビュー作「ジョニー・スエード」を観たり、「リアル・ブロンド」までは追いかけた。それ以降彼の映画は日本では上映されていないと思う。

キャサリン・キーナーを好きになったのも彼の映画に出ていたからだ。

本には、インディーズ出身の映画監督が資金集めに四苦八苦しているさまや、映画界隈の人たちの二枚舌ぶりなどが笑える筆致で書いてある。スティーブ・ブシェミがいい人だということがわかるし、当時スターになろうとしていたブラッド・ピットが主演を断ってきた話など、やっぱりタイミングが大切なんだなぁと思える箇所もある。

映画もそうだったけど、この本に盛り込まれた逸話には、映画づくりのためにまとまった「弱小チーム」のまとまり感とあたたかさみたいなものが感じられてほほえましい。

映画「エド・ウッド」で、「プラン9 フロム・アウタースペース」の試写会場を出たエドのチームがオープンカーに乗って明るく未来をめざしていく感じと似ている。その未来は掌(たなごころ)サイズなんだけど。

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