令和4年3月福島県沖地震 宮城県丸森町 「地震のときブロック塀は危ない」(ボランティアチーム援人 0408-09便)
ボランティアチーム援人、令和4年(2022年)3月福島県沖地震、被災地でのお手伝い、3回目。
この週は弾丸便(金曜深夜に出発、土曜日お手伝い、土曜日中に帰京)だった。
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今週も向かってる。
南相馬~新地は夜間通行止め。地震で壊れたところ、深夜に修復してるんだろう。
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3月16日の福島県沖地震での宮城県内の住宅被害、「5132棟に拡大」。河北新報。
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東北のいくつもの酒蔵がウクライナ支援をやっている。
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OPEN JAPANのベースがある宮城県丸森町の桜、ようやく咲きはじめた…というところ。
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お手伝いは、丸森町(大字)大内地区で、(結果として)ブロック塀解体・搬送2軒だった。
1軒めが午前で終わったのでSさんが現調を早め、午後から2軒めへ、という流れ。
1軒目のお宅は空き家で、1m以上の石垣の上にブロック塀があった。内側に倒れていたが、外側に中折れすれば殺傷力が高いタイプ。鉄筋は縦のみだった。
グラインダー先行で進めたが、途中からYさんが電動ハンマーを投入したことでさらに効率的かつ安全に、かつ大きなブロックがコンスタント出せる流れになった。
2軒目。気温がぐんぐん上がっていく中、ほこりを浴びながら、ガッツリ力仕事。なんとか完了できた。
振り返り。
(さらに…) Read Full Post | Make a Comment ( None so far )2022年福島県沖地震 角田市と山元町で8軒のお手伝い(ボランティアチーム援人 0401-03便)
ボランティアチーム援人、2022年3月16日に発生した福島県沖地震の被災地行き、2回目。
連携してもらっている技術系NPO「OPEN JAPAN」の下、宮城県でお手伝いをした。
今回は、土日2日間で5軒に対応した(チーム分割もあったので、全体では8軒)。
土曜日午前、山元町で被災財の搬出。
土曜日午後、角田市でブロック塀の解体。
日曜日午前、山元町で被災財の搬出を2軒。
日曜日午後、山元町で被災宅の応急処置。
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4月1日土曜日午前、山元町のお宅で家財出し。このお宅は建物の損傷が複数箇所あった。屋根も依頼を出して待っている状態だという。
本宅の2階にあるキャビネット、タンス3つ、旧宅のタンス3つなどを搬出、解体。分別して仮置き場へ運搬した。
解体作業ではハンマー、バールなどの他、インパクトドライバー、ミニバールなど持参道具の細かなものまで役に立った。
午後、角田市に移動し、あるお宅でブロック塀解体。ディスクグラインダー案件で、敷地外に倒さないため細かく線を入れる指示あり。その後、チスなど使って細かくハツリしようとしたが苦戦。大ハンマーで丁寧にやる方式に。Sさんと連携して作業を始めてからはうまく回り始めた。
植栽が邪魔でアプローチが難しい区間があった。が、休憩時に相談し、やり方を工夫して打開できた。
中野、Sゾーンは終わり見えたが、P、Nさんゾーンは進捗が遅かった。コロッケ休憩後、そこにヘルプに入って追い上げることができた。最後、軽ダン2台に一気に積み込み、ニーズ完了。
振り返り。
K 道具を適切に使う。また参加メンバーそれぞれが「今どの道具を使うとよいか」を的確に思い浮かべることができるとよい。
K 危険を察知したら早めに伝える。Tにグラインダーのヒヤリハットについて早めに説明した。
P 午後のブロック塀解体では最後に巻くことができたが、全体進捗を見ながら、途中でやり方について打ち合わせできたらさらによかっただろう。
T この地震、東北以外ではほとんど話題にされない災害になっている。なんとかしたい。情報発信など。
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(さらに…) Read Full Post | Make a Comment ( None so far )南相馬・小高:今年最後は18人チームで3件のお手伝いをやり終える(援人 1225便)
ボランティアチーム援人、1225便、福島県南相馬市小高区での災害ボランティア、2015年12月26日土曜日の記録。
金曜日、そしてクリスマス、師走の今日、援人号南相馬行きはついに年内最終便。車2台18人となった。ニーズによっては2チームに分割されてもいいように割り振りも考えた。できる準備はやった。
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楢葉町・木戸川漁協が、今年戻ってきた鮭から卵のふ化を「5年ぶり」に再開させたという記事が目に留まった(福島民報12/23)。
震災と原発事故は沢山のものをめちゃくちゃにしてしまったけど、こうやって「つなぎ直す」「つなげていく」営為の大切さを改めて思う。援人も、今年も淡々と続けてきた。今夜の便が最後の仕上げだ。
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ニーズはあらかじめわかっていた。
1. 敷地内の草刈り、伐採木の移動(移動先は依頼主と協議)。1本だけ1mの高さで切った木があり、高さをもう少し詰めたい
2. 1.の現場の300mほど手前。解体した納屋の材木、外壁材などの分解、切断、トンバッグ詰め。チェーンソー、高速切断機など必要。
2つのニーズとも10人で半日程度の作業量。2チームに分かれるのが妥当か、集中するのがよいか。現場を見て決めようと考えた。
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朝礼。社会福祉協議会の門馬会長の挨拶は、「この町は文化の息づく町だった。鎌倉、北条の時代から。大して栄えもしない、潰れもしない。この町を守りたい。直したい」。
続いて松本センター長、「今お借りしている旅館の解体は1~2年後ぐらいになるのではないか。旅館オーナーはできるだけ最後の方にしてもらう、と。ボランティアセンターの活動は続けていく。農業支援なども考えている。来年も小高で。皆さんと相談しながらやっていきたい」。
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午前のニーズはいずれも依頼主不在、仕上げレベルがやや曖昧だったが、2チームに分かれ、時々人を融通し合いながらやり切った。
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南相馬・小高:4年8ヵ月目の被災財出し 控えめに迅速に(援人 1106便)
ボランティアチーム援人、1116便、福島県南相馬市の避難指示解除準備区域(小高区、原町区の一部)でのお手伝いの記録。
(※以下、帰京して寝る前に書いたFacebook投稿を、少しだけ手直しして貼り付け)
明日(というかすでに今日)は常総だけど、被災されて避難中の方の大事な決断のときをサポートしたのだから、きちんと振り返っておきたいと思う。
小学校すぐ近く、商店、住居、畳の部屋の広い教室が連なるお宅で被災財片付けのお手伝い。
依頼主は、避難中のいわきから軽自動車で到着された、70~80代くらいの小柄なご夫婦だ。
被災財出しはデリケートなお手伝いだ。
センターのニーズ票の内容を見て、その粗い記載には頼ることができないと判断し、家屋の奥へと入っていくご主人と共に「出す(廃棄する)もの」にテープで印をつけていく。──と判断してすぐ、ご主人がヨタヨタと歩きながら自分で出そうとするので、それを随時サポートする方針に変える。
指示を聞き洩らさないようにしつつ、何人かのメンバーを呼び寄せ、選り分けと搬出をやってもらう。
家電類はおおむね残す、それ以外は出すという判断をされるのだが、傍で吟味すると使える食器や着物、思い出の品と思われるものも出てくる。そこで、控えめに「これまだ使えそうですね」「残された方がいいのでは」と話しかけていく。
初めてお会いした方であり、来歴を知っているわけでもない。だから適切なサポートができたと胸を張ることはできないが、急かすことなく、判断を押し付けないよう心がけながら、できるだけの敬意をもってお手伝いを続けていった。
結果、沢山の家具類と被災財がトンバッグ8袋分、ガレージに並んだ。
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南相馬・小高:熱では長続きしない 終わらせることに執着するチームでありたい(援人 0918便)
ボランティアチーム援人、0918便、2015年9月19日土曜日のお手伝いの記録(であると同時に、シルバーウィーク1/5日めの活動記録)。
この便は車2台、16人のメンバーで向かった。
土曜日なのに、松本ボラセンに集まった活動者は少なかった。
豪雨被害の被災地へ流れたのか。やむを得ないとも思う、が。2012年4月からはじまった出来事を思い出す。避難区域が再編され誰でも日中立ち入りができるようになると、熱に浮かされた沢山のボランティアが小高に詰めかけた。そして、大半の人はやがて来なくなってしまった。
熱は必ず冷める。熱だけを原動力にしたら続かない。ぼくらは小高に、もはやそういうもの(だけ)に頼って通ってはいない。最後までやると決めている。こういう逆風の中でこそ、改めて明らかにしておきたいことだ。
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この日の活動では、実は心に期していることがあった。
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南相馬・小高:帰還に向けた希望のお手伝い しかし町の様相はまちまち(援人 0626便)
東京電力福島第一原発事故による避難指示解除準備区域、南相馬市小高区での復興ボランティア活動、ボランティアチーム援人0626便、2015年6月27日土曜日のお手伝いの記録。
出発時、深夜の東京・八重洲は雨だった。常磐道を北上中もずっと雨、そして南東北の梅雨入りが宣言された土曜日、終日雨が降る中での作業となった。
早朝、原町・北泉の海岸で。重い雲の下、沖でサーファーたちが波待ちをしていた。
朝、雨の中だったがボラセン内は溢れるほどの人。嬉しい光景だった。
朝のマッチングで松本センター長から渡された作業依頼表は、3つ。午前に1件、午後に1件で2件までの対応は何度も経験あるが、3件は初めてかもしれない。
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南相馬・小高:そこを明け渡さないため何度も草を刈る (援人 0619便)
ボランティアチーム援人、0619便(活動日:2015年6月20日土曜日)、福島県南相馬市小高区でのお手伝いの記録。
この日のお手伝いは、久しぶりの草刈りだった。
5月に入った頃から、国道6号線沿いや小高郊外では緑が濃くなり、草の背丈も伸びはじめていた。また原町では、田植えされた苗があっという間に青々と茂っている。そろそろ必要なんだろうな…と思っていたところで、順番が回ってきたらしい。
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朝、朝食後に訪れた原町区の真野川漁港。
未明まで降った雨は上がり、強く陽が差しはじめたところで、静かな海面は鏡のように漁船を写し出していた。
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小高区塚原でのお手伝い、まず1件め。道路から櫛状に、畑の間を500~600mほど延びる引き込み道の草刈りだった。
車一台通れるぐらいの砂利道と、畑へと落ち込んだ斜面が民家までずっと続く。草の密度はさほどないが、タンポポのようにロゼット状に地面にへばりついた葉や下草が多く、刈払機を地面スレスレで使うことになる。すると砂利がバンバン跳ね飛び、なかなか危険だ。平坦な道なのでできるだけ正確に単調な動きを繰り返す。これがなかなかキツかった。
現場はともかく縦に長いので、離れたメンバーとの意思疎通が難しい。今回のような現場では、最初からチームを分割するべきだったと後で気づいた。
やや粗えの出来だが、1件めは午前で終了した。
センターでの昼食後、同じく塚原の2件めのお宅へ。高台の住宅群のやや下にあるこのお宅でのお手伝いは、今回で3回めだった。
見覚えがある家を囲む斜面や側道の草は、またもリセットされている。
初訪時はこのお宅だけで1日かかった記憶がある。が、今回は半日だけなので、場所に優先度を付け、担当を割り振って早速スタートする。メンバー全員が刈払機を持つことにした。
何度も同じ場所をやることには、正直徒労感もある。が、度々依頼されるのは家に思いがあるからなのだろう。
最初に伺ったとき、依頼主(シニアの女性)は、自前の背負い式刈払機を慣れた動きで操っていた。
最近はどうされているのかな、お元気だろうか、と気になった。
(さらに…)
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