気仙沼へ水揚げされたばかりのサンマを食べに行く(援人号 0913便)
2013年9月14日(土)、援人の仲間と、いつもの被災地でのお手伝いではなく、気仙沼へ観光に行った。
2011年、つまり東日本大震災があった年の秋、陸前高田でのボランティア帰りに復旧がはじまったばかりの気仙沼港近くのレストラン(お魚いちば隣接の「鮮」)で食べたサンマの味は強く記憶に残っている。
そろそろ秋、気仙沼に水揚げされたサンマをまた食べに行こう! ということで気仙沼弾丸ツアーが持ち上がり、9人のメンバーで行くことになった。
早朝に通った一関。黄金色の稲穂がもう頭(こうべ)を垂れはじめていた。
気仙沼に入り、まずは階上(はしかみ)地区へ。岩井崎の「龍の松」(津波で損傷して木の幹の一部だけが残り、それが龍のかたちに見えるという被災松)を見に行く。
ああいうかたちで松が残るぐらいだから…と荒れた光景を想像していたが、防風林の多くは津波に耐えたらしくしっかり残っていた。ただ岬の先端のこの松には津波が直撃し、龍のかたちとなって残ったらしい。
南三陸町の歌津で“嵐のあと”の片づけをお手伝いし、おいしいワカメをいただく (援人ヨネザワ号)
2012年4月6日(金)、久々に宮城県の南三陸町へ行ってきた。
といってもボラセンを通してのボランティア活動のためではなく、援人の“隊長”伊東さんを中心に昨年から何度かお手伝いをしているCさん宅へ。
4月6日(金)夜、桜が満開の東京日本橋を「ヨネザワ号」で援人メンバー8人が出発。
この日は、同じく援人の「イトウ号」が6人のメンバーを乗せて陸前高田へと向かった。「陸前高田 未来商店街」で、コンテナ店舗にペイントをするというお手伝いのためだ(こちらのお手伝いは2~3回続く予定)。
ヨネザワ号は、朝7時ごろ志津川に到着。
荒れ地が広がる中心部で、今も鉄骨の骨組みだけが残る防災対策庁舎の前でメンバーは車を降りる。そして亡くなった方々の冥福を祈った。
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歌津伊里前(いさとまえ)のやや高台にあるご自宅が被災したため、現在は平成の森仮設住宅に住むCさん。高齢のご両親は震災で気落ちされ、昨年は所有する田んぼにも手をつけることがなかった。が、今年はそろそろはじめるという。そこで今回のお手伝いは、田んぼ仕事の再開に伴うお手伝いに──。
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宮城県の女川町を1日歩いてきた(栗山岬くんのガイドで)
2012年3月31日(土)、前日に東京を出る夜行バスに乗り、仙台経由で宮城県牡鹿郡の女川町に初めて行った。そして女川町を愛する大学生栗山岬くんのガイドで、1日歩きまわってきた。
女川町については、以前読んだ「6枚の壁新聞 石巻日日新聞」という本の中で、震災直後に入った記者が社に“女川町には何もなくなっている”と報告した言葉が強く印象に残っていた。
小さな町の中心部は、俯瞰してみるとまさにその表現の通りだった。
岬君の話を聞きながら、平地を見渡したり、高台に立ってみたり、ゆるやかな勾配を上ったり下ったりした。そうすることで、女川に到来した想像できない規模の津波の嵩(かさ)を体感的につかむことができた。何度か、自分が津波の只中にいるような感覚を味わい、そして自分があのときこの場にいたらどうする、どうしていた、と考えた。
少しずつ復興しつつある女川町には、被災地観光(この言葉に眉をひそめる人もいるかもしれないが、あえて使う。理由の一部は後述)という意味で楽しめるポイントもいくつもあった。
「おかせい」という店で食べた寿司は、本当においしかった(たぶん、ぼくの生涯の寿司ランキングのベスト5に入ると思う)。
帰ってきて改めて思うのは、どんな思い入れをもって(または持たずに)その場所へ行くかで、見えてくるもの、感じ取れることはやはり違うんだなぁということ。
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春の雨の牡鹿半島、大原浜で瓦礫片付けのお手伝い (ボランティアチーム援人)
2012年3月16日(金)から18日(日)にかけて、0泊3日の牡鹿半島行きボランティアバス「援人号」の活動記録。
金曜の23時、少し暖かさを感じる春めいた夜の空気。この日、大型バス「援人号」は42人の参加者を乗せて東京駅前を出発した。
出発直後のオリエンテーションで「東北ボランティアは初めてという人は?」と聞いてみたところ、手が挙がったのは6人ほど。
翌土曜日の朝、石巻を経て牡鹿半島に入る。空は曇りで、時々晴れ間が見えるが、徐々に全体に乳白色になっていった。
写真は小渕浜のあたり。先日お手伝いしたワカメ加工場から湯気が上がっているのが見え、今日も稼動しているんだな、と少しうれしくなる。
今日のお手伝い先は、大原浜。
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雪の牡鹿半島でお手伝い、東日本大震災から1年めを迎える週末に (ボランティアチーム援人)
マイクロ援人号、2012年3月9日(金)から11日(日)にかけて、宮城県牡鹿半島でのお手伝いの記録。
東日本大震災からちょうど1年めの3月11日。東北の被災地にとって特別な区切りを迎える日を含む週末をどう過ごすか。ずっと東北を気にかけ、東北支援を続けてきた人たちの間でも逡巡があったと思う。ぼくもさまざまなことを考えたが、援人の仲間と共に、その日もお手伝いのニーズがあるという牡鹿半島に向かうことに決めた。
マイクロ援人号は金曜の夜、いつものように東京を出た。満席。結構大粒の雨が降っていた。
石巻で早朝を迎える頃には細かい雪が降っていた。
いつも朝食を買うために立ち寄るローソンでは、レジ周りにお線香、仏前に供える果物、束花などが並べられていた。3月11日は、行方不明の方を含めると1万9千人以上の方々の命日なのだ、と改めて思い返す。
牡鹿半島に入ると雪の勢いはさらに強くなり、鮎川浜の牡鹿公民館に着くころには大粒の雪が激しく舞っていた。
Read Full Post | Make a Comment ( 7 so far )大雪の中、牡鹿半島の小渕浜で側溝掃除のお手伝い (ボランティアチーム援人)
ボランティアチーム援人、2012年2月24日から26日まで0泊3日、宮城県の牡鹿半島で震災復興ボランティアの記録。今回のお手伝い先は小渕浜。もうすぐ操業が始まるというワカメ加工場の横を流れる側溝(といっても住宅街の細いものでなく、深さ1m以上・幅1.5mぐらいの排水路)の掃除のお手伝いをしてきた。天気は大雪。
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金曜の23時、いつもの通り日本橋に集合。参加できないメンバーの何人かがわざわざ見送りに来てくれ、特に大森さんからはメッセージとチョコつきのカイロをいただいた。
7時前、石巻のローソンで朝食を購入。雪。明けてきた空は雲で真っ白だった。
橋を越えて牡鹿半島に入る。左手の万石浦も右手の石巻湾も、真っ白で海面がよく見えない。
この後、半島を南下していくにつれて、大雪は滅多に降らないという牡鹿半島なのに雪がどんどん強くなってきた。
この日の鮎川浜には、普段見ないほど多くのボランティアバスが集っていた。今日は400人ものボランティアが来るそうだ。比較的交通が便利な自治体でのボランティア受け入れが収束していく中、バス会社企画のツアーなどがシフトしてきた結果かもしれない。
旧牡鹿公民館内は、オリエンテーションを受ける団体の人たちなどで活気に溢れていた。
「ボランティアチーム援人」の立ち上げ、牡鹿半島で2度のお手伝い、そして大型バス援人号でのハードなお手伝いまで
2012年1月、昨年5月から震災の被災地に共にボランティアバスで通い続けた仲間たちと「ボランティアチーム援人(えんじん)」を立ち上げた。
去年乗っていたボラバスで「隊長」と呼ばれた伊東さんとぼくの共同代表制でのスタートだ。
いうまでもなく、100年に一度の大天災に襲われた東北の復旧復興は1年や2年で終わるものではない。そして階段を下っていく日本では「復興」の定義さえ変わっていくだろう。
そんな中で、今でも局所的には人手が足りない瓦礫撤去などのボランティアから、被災された方々の状況を知った上で新たな方法でのお手伝いまで、復旧復興の主役である東北の人々が前に進むための後押しをし、追い風となるよう、みんなの力でさまざまなアクションを行っていくためのネットワークをつくりたい。そんな思いで援人を立ち上げた。
活動は東日本大震災だけに限ることなく、いつどこで起こるかわからない次の災害に備え、いざというときには動くことができるネットワークになることもめざしたい。
援人は、1月から2月の初めにかけて宮城県の牡鹿半島に3回お手伝いに行ってきた。その様子を簡単に紹介したい。
1月21日は鮎川浜の社員寮でハードな瓦礫片づけ
ボランティアチーム 援人として初めて東北へお手伝いに行ったのは、2012年1月21日(土)。
現地のボラセン( 牡鹿ボランティアPikari支援プロジェクト )にずっと入っている高野君から情報をもらい、マイクロバスに相乗りで久々に宮城県の牡鹿半島に向かった。
お手伝い現場は、鮎川浜のボラセンから歩いてすぐの東北電力子会社の社員寮。4月からの復興計画が決まり急きょ取り壊す必要があるとのことで、ボランティアが動員されることになったようだ。
建物内に入ってすぐ、まるで震災直後のようにさまざまなモノが散乱していることに驚いた。(実際には発災直後の状態であるわけはなく、遺体捜索や瓦礫運び出しのための最低限の動線作りは行われていたはず。)
そして、冷蔵庫、キャビネット、洗濯機、シンクなどの大物の運び出しも多数あるハードなお手伝いが始まった。
(さらに…)
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