「電子書籍奮戦記」(萩野正昭):電子書籍が持つかもしれない「書く」「読む」自由の話

Posted on 2010年11月30日. Filed under: 未分類 | タグ: , , , , |

株式会社ボイジャー社長、萩野正昭さんの「電子書籍奮戦記」を読んだ。

内容は、ぼくにとっては「電子書籍」をビジネスをするための「奮戦記」以上のものに感じられた。
漠然としたベクトルを食える仕事として立ち上げること、好きを突きつめていく過程での孤独や出会い、そして経営することの重みなど。

MacintoshのHyperCardの話やネグロポンテのベストセラー「ビーイング・デジタル」の話など、壮年以上でIT関連業界にいる人なら、同じ時期に自分が何を考えどんな選択をしたかを重ねながら読むと、さらに面白さが深くなると思う。

沢山の折り目をつけながら読んだので、特に印象に残ったところを引用する(強調はぼくによるもの)。

自分にとって些細な指摘が、ある人にとって大きく響くこともあれば、根本的に重要な問題と私が思うことに、誰も関心を払ってくれないこともあります。その隔たりがあまりに大きいので、心が平静でいられなくなる。ものすごい幸福感と絶望とが常に隣り合わせに存在し、その振幅に心が翻弄されてしまうのです。とくにメディアに従事する人たちに自分の問いかけが響かないときなど、一体何をもってその人たちに対峙すればいいのか、視界が閉ざされてしまったように感じることが私にもあります。」(54ページ)

「ボブ・スタインがコロンビアとハーバードの両大学で教育心理学を学んだこと、学生時代から政治に身を投じていたこと、毛沢東主義者であったこと、卒業後も社会変革をめざして皿洗いなどをしながら共産主義の情報宣伝活動をつづけていたこと、ビラまきコミュニケーションに限界を感じたこと。(…) やがて彼は、革命思想の普及には人がものを理解できるようにする術がもっと必要なのだと考えるようになります。ちょうどそのころ、メディアラボでの次世代電子コミュニケーション技術の研究を知り、そちらへ進路を向けていったのです。(…) 百科事典の将来について、ボブ・スタインは論文を書いていました。(…) そんなとき、パーソナルコンピュータの生みの親とも言われるアラン・ケイが書いたものの中に「ダイナブック」という考えがあるのを彼は見つけていました。ダイナブックは、将来のパーソナルコンピュータのありようを明確に指し示していました。(…) ボブ・スタインはたまらずにアラン・ケイにコンタクトをとったそうです。アラン・ケイは快諾し、すぐに面会に至ったとか。そればかりか、目の前でブリタニカに提出した例の論文を読み切って、一緒に働かないかと申し出たのです。」(60ページ)

「『生まれてくる我が子のために』というタイの記録映画をつくるため本を読むなどして下調べをしていたときのことです。大阪の国立民族学博物館で、『タイ北部の住民の魚の獲り方』というビデオを見つけました。驚いたことに、演出や脚色を施していない、まったくの資料映像だったにもかかわらず、そのビデオがどんな本よりも豊かな情報を与えてくれたのです。 この体験から私は、それまでの記録映画の手法に疑問を持つようになりました。つまり、現地で撮影した映像素材に勝手に起承転結をつけるのはおかしいんじゃないかと考えるようになったのです。」(76ページ)

「たしかその本では、記述のセンテンスごとに、10とか12とかいった意味不明の数字が印刷されていた。その数字は、指摘されたLPレコードの中心から半径何センチメートルかを示し、そこに針を落とすと本の記述に関連する音楽が聞こえるのでした。レコードをかけ、30センチメートルの定規を取り出す、定規には丸い穴があいていて、その穴をターンテーブルの飛び出した芯にひっかけ、中心からの距離をわりだして、そこに針を落とす。なんとも滑稽なローテクだが、ことの本質はこれではないか。」(103ページ)

「500年前、生まれたばかりの活版印刷は稚拙な揺籃期の技術にすぎませんでした。ルネッサンスのヒューマニストは羊皮紙と手写本を愛し活字本を軽蔑していたといいます。確かに当時の活字による出版は貧弱な手段でした。しかし毅然と本をつくる意思がたとえ貧弱であろうとその手段を必要としていたのです。(…) 言葉をおおいに使いたい、言葉を大切な伝達手段と考えるのは、それが私達の一番熟達した手段だからです。満天の星空のような、無数の言葉の宇宙から私達は苦もなく一言一言を紡ぎだします。これほど力ある幅広い可能性をいまだたたえている手段がほかにも与えられているでしょうか。この言葉をもっと自由に使うために新しいテクノロジーを利用しようと思います。」(118ページ)

「「コンピュータを使って読む」ということを真剣に考えてみて、これまで自分たちが本の形式に固執しすぎていたことに気づきました。「本」を送るんじゃない、「読む」を送るんだ。」(153ページ)

「民俗学者の宮本常一には『山に生きる人びと』とか山里の暮らしについて書かれたものがたくさんあります。(…) 宮崎県の椎葉村でしたか、とにかくとんでもない山奥に人が住んでいる、気候も悪い、作物も育たない、稗と粟ぐらいしか収穫できない、それでも人は住んでいる。なぜ人はこんな過酷な条件の中にまで身を置こうとするのか………それは自由だ、というのです。(…) この話は、まさに私そのもののような気がします。私にとってデジタルとはこの『自由』だったのです。何倍もの手間と努力、誰にも相手にされない電子出版、当然にも売れないメディア………そうであっても、なにか希望や自由がそこにあった………どうしても手放したくない自由だったのです。」(218ページ)

これらの引用を読み返してみて改めて、この本はビジネス書の皮を被った他の何かだなー、と思う。

Liked it here?
Why not try sites on the blogroll...

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。