陸前高田市小友町、大船渡線がちぎれたところで瓦礫を片付け、恐ろしい地鳴りを聴いた話 (震災ボランティア10回め)
今回でついに10回めとなった被災地ボランティアバス参加、行き先は、先週と同じく岩手県陸前高田市。
つくばから沢山の人を乗せてレーベン1号が東京駅に到着、2号(「手を貸すぜ 東北」号)には主に東京組が乗りこむ。
天気予報では土曜日の岩手南部は曇り、最高気温は24℃。
バスは北上し、朝4時ごろ福島松川SAで休憩。いつもなら明るくなりはじめるこの時間、まだ空は薄暗かった。
高速道路脇に「15℃」という気温の表示が見えた。先週より10℃ぐらいは低い。
長者原SAに着くころには青い空が見えたが、この後も曇がたれこめたり晴れ間が見えたりの繰り返しだった。
一関インターチェンジを下りてコンビニに寄った後、車内で自己紹介タイム。
東京発の2号車は、初参加の人、特に女性が多かった。参加理由で印象的だったのは、「ようやく仕事が一段落ついたので」「環境が変わったので」など。被災地のために何かしたいという思いを日常生活で心に留め続けて、やりくりができたタイミングで参加する人がいる、ということには心動かされる。レーベン号がそういう人たちと現地をつなぐきっかけになっていることもとてもいいなぁ、と改めて思った。
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コンビニで新聞を買ってみた。地元紙は「岩手日報」と「岩手日日」があったが、一面に「稲わらセシウム汚染 肉牛出荷見合わせ」という見出しがある岩手日日を思わず手に取った。
「解体工事の御見積は、ぜひ当社へご相談下さい。」という広告。その他の広告にも「復興」「元気になりましょう」「耐震」「がんばろう」などの言葉が。被災地外とは違う現実だ。
陸前高田市に入る。気仙大橋仮橋を渡るとき「希望の一本松」が見えた。
津波で消失した高田松原公園で1本だけ残った木。ただ、遠目にも葉は茶色で、被災地の他の木のように「潮枯れ」状態のようだ。がんばってほしいけど。
陸前高田ボランティアセンターは、マッチング待ちの個人ボランティアの列、オリエンテーションを受ける団体の人たちなどで溢れていた。
今日のお手伝い先が決まり、陸前高田市の東部へ向け出発。
途中、先週お手伝いしたホームセンター跡地が見えた。パレットが高く積み上がり、あれから作業が進んだ様子が伺える。ちょっとうれしくなった。
海沿いを広田半島の方へ。市街中心部と違い、まだ生々しい被害が残された地域が現われてくる。
家がまだ沈んだままなのか、と驚いた。
三陸の緑の濃い山々のたもと、平地に広がる瓦礫の山と荒れ野を進む。
今までいくつかの震災被災地を見たけど、とりわけ「自然」のなか「人工物」が散乱している場所に来ると、その真反対の組み合わせを頭が受け止めることができず、これは巨大な矛盾・不条理だと感じてしまう。今回もそんな感覚を味わった。
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今日の作業場所は、広田半島の付け根にあたる地域、小友町(おともちょう)の冥加沢(みょうがさわ)と両替(りょうがえ)。この小友町付近は東西から津波に“挟み撃ち”され、広田半島は一時孤立状態になったそうだ( 河北新報ニュース:津波“挟撃”半島分断 陸前高田・広田半島で「水合」 )・
バスを降りると、町の依頼者の佐藤さんが先に到着したH.I.S.のボランティアツアーの人たちに説明をしているところだった。(この後、参加者にきびきびと注意を伝えるツアーガイドさんの元気な声を聴き、いろんなボラバスがあるんだなぁと感心した。)
佐藤さんに導かれ、リーダー伊東さんとぼくで坂道を上へ。
上がって驚いたが、小高い盛り土だと思っていたところは大船渡線の線路土手だった。そして、数百メートルに渡って線路が切れている。この線路の撤去を待っていたため、一帯の瓦礫掃除が遅れたとのこと。見渡すと、確かにまだ沢山のものが散乱している(実際に作業に入ると草むらや土中からさらに多くのものが出てきた)。
断絶した線路、こちらが陸前高田側(「脇ノ沢」駅方面)。
こちらが大船渡側の線路(「小友」駅方面。ここをずっと行くと、先々週大船渡にお手伝いに行った際に見た終点「盛(さかり)」駅に至るはず)。ちなみにこの線路は、(近所の女性によると)津波のせいで向かって左側に相当ずれてしまっている。
作業に入ると、アルバム、ハガキ、小学生の学習ノート、ボロボロの一万円札、診療ノートのようなもの。さまざまな個人の所有物が出てくる。それらは一カ所にまとめてボラセンに持ち帰ることになっている。
休憩中、Yさんが「うちの子どもが持っているのと同じ教材が出てきた…」と暗い声でつぶやいた。
線路跡だけあって、線路の犬釘や枕木固定用の金具なども出てきた。
ちなみに、今日動かした一番の大物は小さな漁船。男5~6人がかりで。
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午後の作業から30分が過ぎ、チームは休憩に入った。
伊東さん、ぼく、男性数人で飲料水のクーラーボックスをバスに取りに戻る。途中、農家から出てこられた女性に沢山のびわ(だいたい100個ぐらい!)をいただき、みんなの元へ。
佐藤さんの周りに皆が集まり、震災の体験談を聞いていた。(後から聞いたが、お婆さん2人を助け自分もようやく助かったというお話だったらしい。)
そのとき、山の方、海の方、周囲全体から「ゴゴゴオォォォ…」という音が響きはじめた。続いて、地面から「ビリビリビリ…」という小刻みで強い振動が足に伝わってきた。
「地震」と誰かが言った。ぼくはピンとこなかった。こういう地鳴りも強い振動も未体験だったから。
伊東さんが笛を吹き、チームは高台の正徳寺に向かって避難をはじめる(作業前に避難所として指示を受けていたもの)。下ではH.I.S.のチームが作業中だったので、大声で「避難しましょう」と伝えた。
正徳寺は、東日本大震災の際にも町の人の避難所となった場所らしい( 小友町両替の正徳寺に150人ほどの方が避難 | SAVE TAKATA )。
ニュースによると地震が起きたのは13時34分。「強い余震」で陸前高田では「震度5強」。
ぼくらがいたのは海から1kmほど、海抜3~5mぐらいのところだ。瓦礫掃除をしていることからも明らかなように、3.11震災では津波がここまで来た(しかもこの地区は地震後に平均80cm地盤沈下したらしい)。もし3月11日にここにいたら…もし同じ規模の地震が今ここで起きたら…と、地震が「自分ごと」として強く印象づけられた。
お寺への避難と人数確認などでそれなりに時間がかかり、結局、今日の作業はここで終わり。
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陸前高田のボランティアセンターに戻り、道具を返し、拾得した個人の持ち物も渡す。
センター内にはボランティアの活動写真や寄せ書きなどが沢山貼ってある。そのなかで、この“折り鶴で作られた日本国旗”に目を惹かれた。
バスが出るとき、誘導係のボラセンスタッフの方々が大きく手を振り、頭を下げてくれる。その黒く日焼けした顔や腕を見ればわかるが、彼ら彼女らの方が復旧のためにずっと献身しているのだ。そんな人たちに送り出してもらうときの甘いような苦いような思い。
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帰路、気仙沼の港湾部を通る。
まだいくつもの大きな船が、陸に乗り上げたままの姿を晒している。東京のテレビが映さなくなったからって、被災地は元に戻ったわけじゃない。
気仙沼プラザホテルの温泉に立ち寄る度に、いち早く修復工事を進めている様子を見ていた港の真ん前の「気仙沼お魚いちば」が、明日24日再オープンだというので、お風呂に入った後急いで覗きに行ってみた。
ドアも店内も急造らしくやや簡素だけど、明るい店内で何人もの店員さんが働き、商品を並べていた。
港も少しずつ活気が出てきている。ここは、気仙沼港復旧のよいシンボルになるんじゃないだろうか。
来週もお手伝いに行きます!
ナカノ樣今晚は,..ブ口グを讀むごとに感動しています,來週も行くのね,私からもお礼を言わして下さい有難うございます,,,
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akitsai
2011年7月26日
>akitsaiさん
いつもコメントありがとうございます。早速次の週も行ってきて、ブログを書きましたよ。
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nakano
2011年8月1日
[…] […]
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陸前高田市小友町矢の浦で“壁”を作るお手伝いをしてきた話 « du pope : NAKANO Hajime's Blog
2011年12月27日