気仙沼で1日ボランティアをし、陸前高田を見てきた話

Posted on 2011年5月15日. Filed under: 未分類 | タグ: , , , , , |

ずっと行ってみたいと思いながら、ボランティアバスはすぐ満員になってしまうなどでいろいろ機会を逃して、昨日(5月14日)はじめて、東日本大震災の被災地へのボランティアへ行ってきた。

  • 金曜の23時45分に茨城のつくば駅前(つくばエクスプレス)に集合
  • バスで、支援先の宮城県(今回は気仙沼市)には朝4~6時ごろ着く
  • 日中はボランティア
  • その日の夜遅くか、翌日早朝につくばに戻る

というもの。

以下、メモ。

バスはときどきサービスエリアに停まりながら、ひたすら東北自動車道を北上。早朝5時ごろ、休憩で寄ったコンビニ(福島か宮城のどちらか)のレジの傍で、「救援物資です」と書かれた中古衣料のカゴを見た。

気仙沼へボランティアバス Volunteer Bus to Kesennuma, Miyagi pref.

これが「あ、被災地域に入ったんだ」という自覚のはじまり。

空がどんどん明るくなり、宮城県の本吉という地域に入ったあたりで、津波にやられた瓦礫の地域がところどころ現われはじめた。

気仙沼へボランティアバス Volunteer Bus to Kesennuma, Miyagi pref.

同じ地域であっても、地形などの違いによる水の侵入しやすさというわずかな違いで、きれいに残っている家、1階部分がやられた家、土台や残骸だらけの場所がある。虫食い状の景色が続く。

大きなトラックが横転、というか、道路から落ちて斜面に引っかかっていた。また、相当量の残骸がすでに取り除かれたのだろう、比較的きれいな更地のような場所に、ひしゃげた乗用車がぽつんと残されていたりもする。普通ならそのままにはしておかれないような事故だ。が、放置されていた。

気仙沼の沿岸部に着くと、ボランティアセンターの方の説明を受けて作業に入る。
この日はぼくらのバスと、民主党のボランティアバス、総勢60人ほどで、2つの港に寄せられた残骸の片づけ。

ぼくらのバスのメンバー(20代~50代くらい、やや女性多い、30代多そう)は、小田浜(こだはま)漁港という小さな港で作業をすることになった。

小田浜漁港でボランティア (crop)

片づけるものの大半は木材で、津波で甚大な被害を受けた岩手県の陸前高田市の家屋などのものが流れ着いたらしい。
これらを分別して移動し、後日収集しやすいようにまとめるのが今日の仕事。男性は重い木材を運び、女性は小さな木材や燃えない素材の残骸を集めるという役割分担に。

大量の木材の中には、建物の梁のようにどういう風に使われていたかわかるものもあるし、全然想像できないものも。床の一部などもあった。畳などは、男が5、6人がかりでないと運べないほど重い。座布団も重い。
無心に分別と運搬をしていても、靴、サンダル、おもちゃ、ノートなど、人の生活を想像させるものに行きあたると、やはりちょっとドキッとする。

途中通り雨などもあったが、とてもいい天気で、すぐに汗が出てきた。が、単純な作業の中で着実に片づけるべき残骸は減り、港は片づいていく。あ、これは復旧しているんだ、という充実感があった。

休憩時間、漁協の方が震災直後の話をいろいろしてくれた。


津波の第二波は、港を見下ろす建物の二階の屋根を越えて来た(ぼくらがその近くで休んでいる場所。おそらく海面から10mほどの高さか)。
この港では船が5艘やられた。沖へ出て助かった船もある。
高台にある家に被害はなく、逆に家を失った人たちを受け入れたほどだが、道路が断たれたのでほぼ20日間孤立した。
最初に救援にやってきたのはアメリカ軍のヘリコプター。学校の校庭を急造のヘリポートにし、降りてきた。沖合に大きな空母も見た。
米軍から最初にもらった食料は、食べたことがないようなものだった。
その後救援物資は沢山届いている。もし皆さんが寄付や物資を送ってくれた人に会ったら、ぜひお礼を言っていたと伝えてください。

木材の分別は午前中でほぼ終わってしまったので、午後は海岸に漂着したゴミや、斜面を駆け登った津波のせいで残ったのだろう、山肌にへばりついたゴミや漁業用具などを片づけた。

15時前には、ボラセンの人が来て集合、作業は終了となった。
(疲労による怪我などを避けるため、だいたいこの時間で終わることになっているらしい。)

最後に、漁協の人が、また来てください、この港はウニやあわびも獲れるよ、と岸壁にウニやあわびがくっついているのを見せてくれた。透明できれいな海だ。きっと忘れられない。

着替えて、帰路へ…となるかと思ったが、バスは岩手方面、陸前高田へ向かった。作業をした気仙沼の港から20~30分ほど北上したあたりだ。
窓外の景色が一変する。被害の規模が大きい。みんな唖然とした表情をしている。

陸前高田 Rikuzentakata, deeply damaged area by the Tsunami of East Japan Quake

バスを降り、海沿いの被害を受けた区域に入ってみる。

陸前高田 Rikuzentakata, deeply damaged area by the Tsunami of East Japan Quake

当たり前だが、被災直後は何もかも、有機物も無機物もごちゃまぜのすさまじい混沌だったのだろう。それが今は、ほぼ元の区画に沿ってなのだろうか、通路からは瓦礫がどけられ、秩序正しく山がところどころにある。

陸前高田 Rikuzentakata, deeply damaged area by the Tsunami of East Japan Quake

その間を歩いてみると、茶碗のかけら、布の切れ端、タッパーウェアのふた、何かの記念マスコットなど、生活のディテールを示すものが目に入る。

陸前高田 Rikuzentakata, deeply damaged area by the Tsunami of East Japan Quake

この大きな荒れ果てた場所を歩きまわり、思ったほど心を動かされたという自覚はなかった。が、写真を撮りながら、自分が歯を食いしばっていることに気づいて少し驚いた。

バスに戻り、考えた。
ここにいて、津波と共に死んでしまった人はどんな最期だったのか。
幸いにも助かった人は、今は(おそらく避難所などで)どんな思いで生きているのか。

話を戻して、ボランティアの話。
作業をはじめて30分ぐらいでもう、「あと10回、いや現実的なところで最低5回は来ようか」と決めていた。

寄付もする、頭を使っての支援も考える、でもそれだけでなく、体を使っての貢献をできるのはうれしいことだ。
なので、またすぐ行くつもり。

次回に向け、道具面でのTo Do。
安全長靴の中の足裏がわりと痛くなってしまったので、インソールを買う。
泥かき作業用に用意したゴム手袋はすごく蒸れたので、次回も同じような作業である場合に備えて、通気性のいい(手のひら部分のみゴム貼りの)手袋も用意する。

5件のフィードバック to “気仙沼で1日ボランティアをし、陸前高田を見てきた話”

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ありがとう。そしてお疲れさまでした。
私の義弟はからくも津波に呑まれずにすんだ一人です。
きっと被災者の殆どが、当たり前のようにずっとそこで生き続けていけると思っていたのに、それが根こそぎ奪われてしまったという喪失感を埋めて行くのは大変なことでしょう。
でも、この荒れ果てた光景を見てあなたのようにもう一度ボランティアに行こうと思ってくれる人がいる、それが何よりの励みになります。
ありがとう。

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>灰色猫さん

労いのお言葉、ありがとうございます。
次回以降も気を引き締めて行ってこようと思います。;^)

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[…] ぼくの3回のボランティア体験記(その1・その2・その3)を見てもらえればわかるけど、現地でしっかりボランティアをやるまじめなツアーです。 […]

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[…] 5月に初めてボラバスに乗って気仙沼へ行き(「気仙沼で1日ボランティアをし、陸前高田を見てきた話」)、瓦礫整理のお手伝い中に「あと10回、いや最低でも5回は来よう」と決意してから毎週さまざまな被災地ボラを経験し、今回でついに8回め。区切りの10回がいよいよ近づいてきた(別にやめるわけじゃありませんが)。 […]

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