牡鹿半島でのお手伝い3回め、大原中仮設住宅で漁業再開に向けたお手伝いをしてきた話
2011年10月21日発レーベン2号、牡鹿半島での3回めのボランティア。
小雨だが屋内作業となり、半島中央の大原中学校跡の仮設住宅へ。バスがぬかるんだ坂を上がる際、後部をこすってしまう。22回めにして初のトラブル。お手伝い内容は、漁師の方のお話を伺いながら体育館での漁具・漁網作り。2号は結局動かさないことになり、陸前高田行き1号車、高田でお借りしたマイクロバスに分乗して帰路についた。濃い週末。
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23時ごろ、日比谷は雨。これから行く陸前高田や牡鹿半島を含めて東日本の大部分が雨らしい。
1号車には、気仙沼のCさんからの要請で集められた沢山の毛布が積みこまれた。
牡鹿行き2号車には今回41人が申し込みをし、40人が乗車。うちレーベン号に初めて乗る人が21人。東北被災地に初めて行くという人が10人ほど。リーダーとしてしっかりやろう、と気を引き締める。
朝、石巻を通過中に雨はいったん収まったが、牡鹿半島に入ると再び降りはじめた。
鮎川浜へと南下する道路は、地震でひび割れが多数あり、路肩が崩れている箇所や、台風でゆるんだ斜面から土砂が滑り落ちたところもある。修復のための片側通行止めも常に何カ所かある。
8時過ぎ、バスはCoco!ストア牡鹿店に到着。半島内でほぼ唯一やっている店らしい。
先週バスを停めた際にオーナーから声をかけられたとのことだったので、今週は数日前に「40人が昼食のお弁当を買いますので、多めに仕入れておいてください」と電話しておいた。
が…。レーベン号よりやや先にちょうどボラバスが2台来ていて、商品棚の弁当類の数がすでに心細い(バックヤードに在庫があったのかもしれないが)。ので、ぼくはパン1個とおにぎり1個だけにしておいた。
牡鹿公民館にあるボランティアセンターに到着。
受付にいたMさんに、現況や年内の予定などを伺ってみた。
今日はボランティアが多く、500人ぐらい。が、依頼主が休日は不在などの事情で平日もニーズはあり、応えきれていない。ニーズがある限りボラセンは続ける予定で、少なくとも年内はやるとのことだった。
Mさんは、ボラセンが入っている公民館に「何日か前にやっと電気がついた」と笑った。
先週までは裸電球一つだけで薄暗かった室内に、今は蛍光灯が点いている。が、長い間発電機の音に慣れていたので「静かすぎるてまだ慣れない」とも。
今回のお手伝い場所は、半島の中央部、内陸にある大原中学校跡(現在は仮設住宅が建っている)。その敷地内の体育館で漁業用道具を作るお手伝いだという。
ぼくにとって初の屋内作業だ(レーベン号は第一回の石巻で屋内作業を経験済み)。瓦礫撤去や側溝掃除なども当然やりがいを感じるが、被災地の人が自ら収入を得ようと立ち上がるのをサポートできるのはうれしい。念願だったお手伝いの一つなのだ。
(この時点で、海沿いでの作業に備えて新たに持ってきた「地震津波警報機EWR200」は今回出番がなさそう、と判明…。)
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国道2号線を北上、大原小学校を過ぎ半島を横断する41号線へ。大原中に入るためにUターンするスペースがないので、一旦谷川(やがわ)方面へ向かう。低地に近づくと、歪んだガードレールや瓦礫が置かれた荒れ地が見えた。北東側から津波が来たのか…と考えた。
Facebookでコメントをいただいたが、大原中の仮設住宅には「津波が川を伝ってはるか内陸まで駆け上がり、被害の大変酷かった谷川の方々が避難なさっておられたと思います」とのこと。以下の記事に、一帯の詳しい被災記録と、津波後の谷川の痛ましい姿を収めた遠景写真がある。
神戸国際支縁機構 ≫ 牡鹿半島 聞き取り調査 (6) 鮫浦 大谷川 石巻市谷川
http://kisokobe.sub.jp/proposal/1088/
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「大原中学校跡地応急仮設住宅」に到着。後ろに校舎と体育館が見える。
バスが駐車場に上がっていこうとしたとき、レーベン号初のトラブルは起きた。
ガガガッ、と音がしてバスが停車。降りると、雨でぬかるんだ泥にタイヤがはまり、後部が地面に接触。
あれこれ試しながらも立ち往生しているところ、通りかかった大型トラックにワイヤーで牽引してもらい、無事脱出できた。
バスは心配だが、約束したお手伝いがあるのでボランティアたちは体育館へ。
いくつかのグループに分かれてお手伝いを始める。
綱を一定の長さに切り、まとめていくグループ。
養殖用の網の重石に綱を通していく作業。
指導の漁師さんから漁業の復旧状況などのお話も伺いながら、作業はゆったり進む。
イワシなどの小魚を捕るために使うという定置網が広げられた。
宮古から応援に来ているベテラン漁師さんに教えていただきながら、定置網を縫い合わせていく。
このカキ殻の束はホヤの養殖用で、こういう作業は11月末まで続くという。
体育館は7月、仮設住宅ができるまで避難所になっていた。
鍋が積み重ねられた収納棚があったり、畳が干されていたり。ステージの奥には沢山の布団やマットレスが積まれていた。また、位牌がいくつか並べられたスペースもあった。
ぼくは作業5割、全体の見回り2割。その他はバスに戻り、ドライバーさん、陸前高田にいる社長やリーダー伊東さんと連絡を取り、この後について協議していた。
移動中に木造校舎(ここも今は漁具作りなどに使われている)の近くを散歩していたトラ猫。近寄らせてはくれなかった。拡大写真はこちら。
12時、お昼休憩。
皆を集め、2号車は自走が厳しく今日は残していくこと、陸前高田行き1号車が陸前高田VCでお借りしたマイクロバスと共に迎えに来るので、つくばまでの帰路については問題ないこと、などを話した。
牡鹿VCにも電話し、ここで上がらせてもらうことにした。
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16時ごろ、お手伝いを終え、挨拶をしてバスに戻る。
この後バタつくことが予想されたので、記念撮影をする。動かない二号車を背景に。
その1。その2。
リュックの中からヘッドライトを出し、暗くなってきたバス内で灯す。他に何人かがマグライトやLEDライトを出し、コンビニ袋を被せて即席照明に(Eさんのアイディア)。
この環境で、めげずに感想タイムをはじめた。
漁や養殖に使う道具を作るお手伝いができたことで、「1年後にまた来てみたい」「3年後が楽しみ」といった感想。また、作業の合間に漁師の方とさまざまなお話ができたことが印象的だと話す人も多かった。
聴いていて、被災地の復旧・復興に沢山のボランティア=よそ者を関わらせることは、短期的な実利もさることながら、長く忘れられないための「関係づくり」の意味合いの方が大きいのでは、と改めて思った。ならば、夏ごろには県外ボランティア受け入れについて消極姿勢に転じた宮城の各都市に比べて、今でもボランティアを積極的に募っている陸前高田市などは、沢山の来訪者によるソーシャルキャピタル(社会関係資本)が豊かに積み上がりつつあるはず。緩効性のものだろうが、そういう資産がある地域とない地域では、今後の復旧復興の様相はかなり違ってくるのではないか。
キツい作業を想像していた男性の何人かからは「ややもの足りなかった」という声も。
が、ボランティアは参加者を満足させる「サービス」ではない。ニーズは必ずしも最適な内容やタイミングで上がってこない。ボラセンの人手も足りない。ただ、被災された方が「実際に求めている作業」であることは確か。謙虚にお手伝いさせていただきましょう、という話をした。
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陸前高田から気仙沼を経て17時ごろには到着予定だった1号車から、牡鹿半島に入ったがガス欠で遅れるとの連絡。慣れない沿岸を通ったため営業中のGSが見つからなかったらしい。
バスの外で雑談などしていると、短い時間だが強い地鳴りが起こった。「10月22日 17時57分 宮城県沖 震度1 M4.2」か。小規模でも震源に近いとすごいな、という印象。
真っ暗な中、鹿の鳴き声が2度聞こえた。
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19時過ぎ、大原に1号車とマイクロバスが到着。1号車の補助席やマイクロバスに2号車メンバーが分乗。2号車のみ仙台駅前へ向かう。途中真っ暗な石巻沿岸部を通り、ちょっと暗澹とした気分になった。仙台で高速バスに乗る人や泊まる人を降ろして高速道路へ。菅生SAで2台が合流したのは23時ごろだった。
早朝4時半、レーベン隊はつくば駅前に着いた。
普段のボラ以上に奔走し、帰りはマイクロバスに揺られたせいもあるのか、さすがに今回は疲れた。
アクシデントにも関わらず無事連れ帰ってくれた立花社長やドライバーの方々、よくサポートしたリピーターたち、そして落ち着いて行動してくれた参加者の皆さん、お疲れさまでした。
このブログを書いている間に、2号車は修理のため1週間お休みと決まった。
今週末は…どうしようかなぁ。
お早ようございます.ポランテイアの御蔭で少しづつ復舊していますね.道はまだ修復してない樣ですが.きれいに見えます.本當にお疲れ樣でした.次はお休みになって氣がるにお過しになると良いわね.ミちやん達も喜ぶでせう.
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akitsai
2011年10月26日
そうですね。猫たちには毎週末寂しい思いをさせてしまっているかも。
が、今週末はもう1台の方のバスに乗って陸前高田へ行くことが決まりました。
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nakano
2011年10月26日