メモ:「未来を変えるためにほんとうに必要なこと」(アダム・カヘン著)から

Posted on 2010年5月1日. Filed under: 読書 | タグ: , |

未来を変えるためにほんとうに必要なこと」(アダム・カヘン著)を読んだ。

手ごわい問題は、対話で解決する」という著作もある彼の新刊で、来日した彼のセミナーに参加した際にいただいたもの。

「未来を変えるためにほんとうに必要なこと」(しかも原題は”Power and Love”)というタイトルでは、もらいでもしない限り手に取ることはなかったと思うが、セミナーでのカヘン氏の「愛(切り離されているものをつなげようという衝動)」と「力(自己実現の衝動)」という話は新鮮だったので読んでみた。あまり構造的な内容ではないけど、彼がファシリテーターとして関わった南アフリカ、コロンビア、イスラエルなどのプロジェクトの話もうまく混ぜ込まれていて面白かった。

引用(強調はぼく)と、最後にちょっとだけ感想を。

「戦争の反対は平和ではない。創造だ!」
むずかしい社会問題に取り組むには、戦争でも平和でもない方法、集団による創造(コレクティブ・クリエーション)が必要だ。

愛は、力を退行的ではなく生成的なものにする。
力は、愛を退行的ではなく生成的なものにする。
したがって、力と愛はまさに補完的な関係にある。それぞれが持てる可能性をすべて発揮するには、相手が必要なのだ。力だけを重視した「テラ・ヌリウス」の世界観がまちがっているのと同時に、「愛こそはすべて(オール・ユー・ニード・イズ・ラブ)」の世界観もまちがっている。

愛なき力は無謀で乱用を招き、力なき愛は感傷的で実行力に乏しいものです」(キング牧師の言葉)

白人実業家、ヨハン・リーベンバーグは、驚きと喜びを交えながら、それまで敵対者だった黒人リーダーたちとの会話を後に振り返っている。
「これは私にとって新鮮でした。特に、彼らがとてもオープンなことが。『いいか、いつかおれたちが支配する時代になれば、こうなるんだ』とばかり言うような連中ではありませんでした。『なあ、どうなるんだろう。話し合おうじゃないか』と言える連中でした」

「『AがBにBの利益に反する方法で影響を及ぼすとき、AはBを支配して力を行使している』という言い方で力を定義することは誤りだった。支配としての力は力の種類の一つにすきない」
「させる力」は「する力」の部分集合(サブセット)なのだ。

社会にとっては好都合だが、自分にとっては不都合な新聞記事を読んでも幸せでいられるようになったとき、自分が成熟しつつあると悟った

「愛とは、自我の外にある何らかの存在に対して自我を目覚めさせる一つの力である」

「力のある者とない者の争いから手を引くということは、力のある者の味方をするということであり、中立ではない」
力の無視は、世間知らずの単純さか、ずるさの証拠なのだ。

オットー・シャーマーは、彼が「ダウンローディング(downloading)」と呼ぶもの、つまり、いつも話していることを話し、いつもしていることをすることによって現状を再現することは、礼儀正しく、対立を避けられるが、偽物の全体性(ホールネス)を生み出すと指摘している。他者と、あるいは高次の自己(ハイヤーセルフ)と一体化し、自己を超越したと思い込むかもしれないが、たいていは、もっと小さい自己、つまり自我の偽りの投影を経験しているにすぎない。力なき偽りの愛の裏に潜むのは、自己を欺く、利己的な、愛なき力である。

「内心どう思っているかはわからないけど、少なくとも礼儀をわきまえている人たちの方がましじゃないかな」と私が言うと、彼女は答えた。
「違う。人種差別は露骨なもののほうが闘いやすいの
隠された力は、はっきり見える力より対処するのがむずかしい。

「緊張状態にある価値観の『間をとる』、あるいは二つを『組み合わせる』のは、いかにもすばらしいが、実際にはかなり難しく、いつもとは違う特別な思考様式と行動様式が要る」「対照的な価値観が非常に対立しているように見えるのは、今ある一瞬に両方が提示されるからだ。現実には、時間はこうした対照に折り合いをつけるものなのである
力と愛の両方を発揮することを学ぶというのは、二本の脚で歩くことを学ぶのに似ている。(…)一本を先に動かし、次にもう一本を動かし、つねにバランスを崩しているのだ──もっと正確に言えば、つねに動的なバランスをとっているのだ。

「だれも力について話題にしないときにはつねに、それも間違いなく強い力が存在する。力が話題になっていれば、それは力の衰退の始まりだ」
(…)システムの変化の手段としてのチェンジ・ラボは、より大きなシステムに内在する力のダイナミクスに意識的に対処しないかぎり成功しないだろう。

プロジェクトが終わりに近づいた頃のあるミーティングで、ラビ和解協議会から来ているラビのアズリエルは、協働を通して自分の視点が根本的に変化したことをしみじみと考えていた。
いまわかるようになったこと、そして驚いていることがあります。それは、自分は好きでも他人を配慮しないシナリオよりも、自分では選ばなかったし好きではないものの、自分と自分にとって必要なことが配慮されるシナリオに生きたい、と私が思っていることです
彼が言った後、部屋は神聖な静寂に包まれた──イスラエル人はあまり沈黙しないのだが。これは、私たちの旅路の苦労や試練の数々が報われる恩寵にひたった貴重な瞬間の一つだった。

1993年、私が南アフリカに移住して一週間後、南アフリカ共産党の黒人党首で国民に人気のあるクリス・ハニが、ヨハネスブルクの自宅の外で極右の白人移民によって暗殺された。暗殺犯は、近所に住んでいたアフリカーナ(注:アパルトヘイトの支配層である白人)の女性が犯人の車のナンバーを書き留めておいたためもあり、すぐに逮捕された。が、この事件が流血の暴動沙汰に発展するのではないかとだれもが恐れた。当時のデクラーク大統領は、マンデラに、国営テレビに出演して国民に冷静な対応を呼びかけるよう要請した。マンデラはこう呼びかけた。
「偏見と憎しみに満ちた白人男性が、われわれの国にやってきて、国全体が大惨事の危機に瀕するほど卑劣な行為を犯しました。アフリカーナの白人女性が、われわれがこの暗殺者を見つけ、法による処罰を下せるように、命の危険を冒しました」
マンデラは、「黒人 対 白人」から「南アフリカ国民が一丸となって自分たちを攻撃する者に対抗する」という構図に変えることに成功した

「ソーシャルイノベーションは新しい着想から生まれるとはかぎりません。人間関係の新しいネットワークから生まれるのです」
オックスフォード大学のアンジェラ・ウィルキンソンはそう言う。北アイルランドの和平プロセスで重要なファシリテーター役を何十年も果たしてきたマリ・フィッツダフも同様の発言をしている。
「このような状況では、解決策はめったに問題になりません。北アイルランド紛争の解決策は、何年もファイルキャビネットで眠っていたようなものでした。必要だったのは、最後にはそうなったわけですが、主役たちが一緒にファイルキャビネットに向かうことでした

「速く歩きたければ、一人で歩け。遠くまで歩きたければ、だれかと一緒に歩け」

だれかと対立し、勝ち目がないと感じ、傷つくのを恐れるとき、私は自衛力を奮い起し、引き下がる。その対立を処理する能力はすっかり鳴りを潜め、私が動かさなければならない空間の意識は縮小し、身動きがとれなくなってしまう。これは、統一をめざす愛を弱らせる力だ。一方、だれかと団結しようと夢中になっているときは、相手を傷つけ、結束を壊してしまうことを恐れ、あえて動かない。これは、自己実現をめざす力を弱める愛だ。

心理学者のロバート・キーガンは、あらゆる個人の発達の最大の原動力は、「自分の特殊性や方向の自発的な選択や個人の完全性を味わうために、独立や自律に焦がれる気持ちと、何かに含まれたい、何かの一部でありたい、何かに近づきたい、何かと結びつきたい、何かに保持されたい、だれかから認められたい、だれかと一緒に歩きたいという気持ちとの間の、生涯にわたる緊張」にあると述べている。

自分自身を癒そうというとき、傷があることは幸いだ。自分のどこが敏感で弱く、同情的な関心を必要としているかを教えてくれるからだ。

私たちが持てる力と愛を余すところなく発揮するのを妨げているものは何だろうか。
恐れだ。だれかを怒らせたり、傷つけたりするのを恐れるから、断固とした態度や力を抑制するのであり、気まずい思いをさせられたり、傷つけられたりするのを恐れるから、オープンさや愛を抑制するのだ。私たちは、恐れに私たちが完全になるのを妨げる行為を許してしまうという機能不全に陥っている。
私たちが進むべき道は、この恐れがない道ではなく、恐れを通り抜ける道だ

最後に、個人的にうーんと思った引用を挙げ、感想を。

ハンガリーの小規模なアルプス分遣隊の若い中尉が、スイスでの軍事演習中、凍てついた原野に偵察隊を送り込んだ。急に雪が降りだし、丸二日降りつづけた。偵察隊は戻らなかった。中尉は心配し、部下を死に追いやってしまったのではないかと恐れた。ところが、三日目に部隊は帰還した。
「どこにいた? どうやって帰ってきた?」
「ええ、道に迷ったと思い、雪がやむのを待っていました。やがて一人がポケットに入っていた地図を見つけました。それで一同落ち着きを取り戻しました。キャンプを設営し、雪嵐がやむまで持ちこたえました。それから地図を見て、自分たちのいる方位を定めました。そしてここにたどり着いたというわけです」
中尉はその大役を果たした地図を借りて、よく目を通した。驚いたことに、それはアルプスの地図ではなく、ピレネーの地図だった。

このエピソードは、この本の主張に対して両義的であり両刃だと思う。
この例の教訓は、

  • 人は、未知の問題や複雑性に直面したとき、必ずしもよい戦略や正しい地図によってではなく「行動を開始し、あるコンテクストではっきりと把握できる結果を生み出し、その助けを借りて、今何が起きているか、何の説明が必要か、次に何をすべきかを知る
  • 足を踏み出さなければならない緊急性と生成的な複雑性があるとき、すぐ行動すること、警戒を怠らないこと、進みながら学び、調整することが必要

だと説明されているが、微妙じゃないかと思う。メソドロジーは措け、「イチかバチかだ」「体当たりで臨め」みたいな主張に聞こえる。
この本では彼の“失敗プロジェクト”も沢山語られていて、それは抽象論だけの本と違って説得力を高めているが、一方で彼が掲げる「チェンジ・ラボ」などの問題解決プロセスはこの程度なのか、とも正直思う。

オルタナティブな価値観・手法というのは、なんであれ目新しいというだけで多くの人が目を輝かせるし、ダイアローグなどを取り入れたワークショップはその点ですでに一定の成果が担保されているだろう(ぼく自身の参加経験を振り返ってもそう思う)。ぼくがワールドカフェといったやり方は刺激的だと思う一方で疑いを持つのは、それらの手法が「本当に」従来の手法より「新しい」以上に「優れている」のかという点だ(「本当に」とか「優れている」というものさしがどうなのか…というエコーが自分の中で広がるが、いったんここでは保留にする)。

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