「ダイソーは必ず潰れる」 矢野社長の痛気持ちいい言葉(「社長の哲学」読書メモ)

Posted on 2016年7月15日. Filed under: 読書, 企業経営 | タグ: |

100円ショップのダイソーを知らない人はいないと思うが、その経営者である矢野博丈氏(株式会社大創産業 代表取締役)は有名ではない。Wikipediaにも「矢野はいわゆる経済団体に参加せず、経済誌などのインタビューもほとんど受けないため、マスメディアにあまり登場することはない」(矢野博丈 – Wikipedia)とある。

彼の発言を以前どこかのネットメディアで読み、ずっと興味を持っていた。で、有名な経営者だから本を出しているんでは──と検索してみたが、ない。かろうじて引っかかったのは以下の本だ。

イエローハット、MKグループ、ドトールコーヒーの経営者と共に矢野氏が登場するが、この本は講演録のようだ。だから正確には著書とはいえないが、それでも矢野氏の“魅力的な”言葉を味わうことはできる。

矢野氏のどこに魅力を感じるか。経営者は自社を取り巻く環境や将来について過剰に怖れを抱く(いわゆる)パラノイア的側面が多かれ少なかれあり、それが優れた経営者の資質だといわれることもある。大企業の経営者ともなればそういった側面をうまく糖衣でくるむ人が多いが、矢野氏の場合はむき出しなのだ。だから読んでいて“痛気持ちいい”と感じてしまう(ぼくの場合は)。

(ちなみに、ドンキの社長はもっとガツガツしている。)

以下、「社長の哲学」から自分用に抄録をまとめておく。

今、日本という国は本当に恐ろしい、厳しい、悲しい、すごい国になってまいりました。われわれ日本人の心の貧困、また日本人の劣化は目を覆うばかり。世界に誇れるような日本人の強い遺伝子を持った人がいなくなってきた。今さえよければいい、自分さえよければいいという人ばかりです。経済もまさに『祇園精舎の鐘の声』で、平家のようにつぶれていく寸前でありましょう。この日本をどう変えていけばいいのでしょうか。新たな啓蒙が求められている時代であると思います」

  • 20世紀は青い色、今は灰色。21世紀は思わぬ悪いことが起きる「守り続ける世紀」だ

「私は31年間この商売を続けていますけれど、最初のころは店頭販売をするために朝4時5時に家を出て、店先に6時ごろにつけて、商品を下ろしてベニヤ板の上に物を並べていました。準備が終わって、売る前に腹ごしらえをしようと喫茶店にモーニングを食べに行くと、商店街の親父さんがのんびりやってきてモーニングを食べていました。私たちは食べたらすぐに帰るけど、彼らはゆっくり新聞を読んだりしていました。(…)20世紀にはそれでもやっていけたのです。その同じ商店街が、今シャッター街といわれるようになっている。時代は変わったのです」

  • 勝ち組、負け組という言葉が流行したが、もう古い。生きるか死ぬかの時代になっている

『大創産業という会社は必ずつぶれるんだ』ということ。必ずつぶれる会社をいつまで保たすか、その期日を先延ばしにするには社員が努力し頑張るしかない。たくさんの先輩たちが働くという強い遺伝子を発揮してダイソーをつくってくれたけど、このままでは5年先にはつぶれてしまう。それをなんとか5年5ヵ月保たせたい。そのあともう5日延ばしたい。その気持ちを鮮明に持って、みんなで頑張るしか道はない」(入社式で新入社員に話す内容)

「笑い話になりますが、金を差し出したとき、私の肘は曲がっていました。返さなくてはという思いの半面、返したくないという思いも5割あって、肘がまっすぐに伸びなかったのです」( 夜逃げ同然で出てきた東京で、状況した兄に借金を返す場面の話)

  • ダイソーには社長室も応接室もない。秘書らしいものもいないし、役員も3人だけ。社員はパートを入れると2万2千人ぐらいいるが、会社のあり方は創業時とあまり変わらない。20世紀はどんどん大きくなることが正しかった。しかし21世紀は大きかった企業が縮んでいく時代だ

「それまでの私は、つぶれる会社に勤めてくれる社員を怒れませんでした。朝の5時6時から夜の11時12時まで働いてくれる社員を怒れるはずがない、そう思っていたのですが、伊藤会長にお会いした翌日から、社員を怒ることができました。それも必死で怒れるようになりました。そのことが今の会社ができた大きな理由だと思っています」(セブン&アイの伊藤名誉会長から薫陶を受けて辿り着いた考え)

馬鹿野郎、俺だってつぶれる夢を月に1回は見るぞ。ヨーカ堂やセブン-イレブン、大した会社じゃないんだ。いいか、中台戦争が起きたり、中近東戦争が起きたり、ヨーカ堂が不祥事を起こして新聞で叩かれたら、1人客単価100円は減るんだ。それだけで赤字になってしまう。そんないい会社じゃないんだよ、馬鹿野郎」(伊藤会長)

俺の生きている間だけ生きられればいいよ」(ジャスコ 岡田名誉会長)

私は経営者に向いてないんだ」(ユニー 家田元会長)

他にも、矢野社長がダイソーを創業するまでの流転の日々についての記述が結構ある。家族を連れ広島から東京に逃れてきたとき、箱根駅伝のランナーを茅ヶ崎あたりで見かけたときの情景や、「10年ほど前までは、茅ヶ崎の景色が映ると泣いていました」という一節などはしみる。

万人受けするものではないと思う。理解できない人も多いだろう。
が、ぼくは矢野社長の考え方をときどき思い起こしたい。

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