“その日その時”には率先避難者になれ 人が逃げない3つの理由(片田敏孝著「人が死なない防災」から)

Posted on 2014年4月8日. Filed under: 未分類 | タグ: , |

片田敏孝さん(群馬大学大学院教授)の著作「人が死なない防災」の読書メモ。

去年、ぼくは「シンサイミライ学校」というシリーズ番組(NHK Eテレ)で観た片田教授の防災教育の取り組みに強い感銘を受け、勢いで以下の記事を書いた。

するとはてなブックマークで300以上ブックマークされるなど結構大きな反響があり、それが良質な被リンクと見なされたのか、このブログに「釜石の奇跡」という検索キーワードで毎日人がやってくるようになった。

そのこともあり、「人が死なない防災」が電子書籍化されたタイミングで読んでみたらやはりとてもよい内容だった。エッセンスを紹介したいと思う。
(付け加えると、“書かなきゃ”と思ったもうひとつの理由は、2014年4月1日に起こったM8.2のチリ地震による津波注意報や避難について、日本のTwitter界隈の冷ややかな反応にやや違和感を感じたこと、だ。)

マスコミが盛んに報道した「釜石の奇跡」について片田さんは、周りを先導しながら迅速に避難した子供たちの行動を讃える言葉として理解はできるが、自らこの表現を積極的に使う気にはなれない、と述べる。自らの取り組みは道半ばだった、

「私は、学校向けの防災教育だけをやろうと思っていたわけではありません。子どもたちに防災教育を行い、その子どもたちを介して、大人たちに意識を広げていく。そんな防災をやりたかったのです。講演でも「犠牲者ゼロの地域づくり」という演題を多用していました。しかし東日本大震災の大津波では、99.8%の児童・生徒は生存したものの、釜石全体では死者・行方不明者が1000人を超えました。防災研究者としては、明らかに敗北です。

と懺悔する。

片田さんが2010年7月に釜石高校の生徒たちに向けて行った講演に、こんな一節がある。

「将来、津波は必ず来る。私は、これを皆さんにしっかりわかっておいてもらいたい。いつの日かわからないけれども必ず津波が来る。その日のことを、皆さんが今どう思っているかによって行動が変わってくるわけです。毎回毎回避難して、最後に「やっぱり避難しておいてよかったな」を勝ち取るのか、「なんだよ、津波来ないじゃないか」と言ってそのうち避難しなくなってしまうのか。最後の一回で迎える結果は、もうすでに決まってしまっているのです。

この講演から1年もたたないうちに、東日本大震災は起こった。講演を聞いた生徒一人ひとりはその日、どんな行動をとったのだろう。

災害が起きたときに人が避難する・しないを分ける境い目はなにか。それを考える前提として、本書の内容から逃げるべきときに人が逃げ(られ)ない3つの“罠”を読み取ってみた(この本の中で3点に分けて説明されているわけではなく、ぼくなりの視点で整理を試みたもの)。

人はなぜ逃げないのか:(1)想定・先入観に捉われすぎてしまう

防災の考え方で「100年確率」というものがある。たとえば100年に一度の確率で起こる津波や河川の氾濫に備え、立派な堤防をつくる。すると住民はそれに安心しきって、また年月がたつと災害の伝承も途絶え、備えを怠っていく。
そこに襲いかかるのが100年確率を超える規模の災害だ。釜石ではハザードマップ(災害による被害予想図)の浸水想定区域の外側にいた人が多く亡くなった。津波は“万里の長城”とまでいわれた田老の巨大防潮堤をも超えた。

このことについて片田さんは、

「田老や釜石など東日本大震災で被災した地域は、「想定外」だったから被害を受けたわけではありません。また、「想定が甘かった」わけでもありません。そうではなくて、「想定にとらわれすぎた」のです。
東日本大震災によって顕在化したのは、防災というものがはらむ裏側の問題です。それは、防災が進むことによって、社会と人間の脆弱性が増し、住民を「災害過保護」ともいうべき状態にしてしまうという問題にほかなりません。」

といい、防災教育を行っていく上ではこの点の理解を正し、どう主体的に判断・行動できるようにするのかが最重要なポイントであると述べている。

人はなぜ逃げないのか:(2)行政への過信・甘え

日本では、自然災害で年に数千人が亡くなっていた時代があった。それは「明らかにシステムエラー」、つまり仕組みの不備が原因だ。しかし防波堤、堤防、砂防ダムなどができ、災害対策基本法の下で情報伝達や避難体制も整備された。
日本の防災の課題はすでに年間100人程度の犠牲者をどうゼロに近づけるかというレベルで、そこで行政にできることには限界がある。「限界だけではなく、弊害すらあると思います。弊害とは何か。自然災害に向かい合うのは行政で、行政の庇護のもとに住民がいるという構造です」。

片田さんは新潟豪雨災害(2004年)の住民を対象とした調査結果から、以下のように指摘する。

「おかしいと思うことがあります。自由回答の一つに「浸水が進んでも避難勧告がなく、避難できなかった。市の責任は重い」というのがありました。このまま読むと、それはそうだろう、情報もないまま水が来たから住民は怒るだろう、と理解はできます。しかし、読み方を変えるとどうでしょう。「水が来た。だけど、逃げろと言われなかったので逃げられなかった。市の責任は重い」。あなたは逃げろと言われなければ逃げないのか、と言いたくなるような状況がここにあります。

平屋建ての家で床上浸水がはじまっても逃げず、代わりに避難勧告を待つ、という姿勢。
日本人は長年行政主体の防災に頼り切っていて「災害過保護」というべき状態にある。「このままの姿勢で「その時」を迎えるなら、「役所のせいだ!」と言いながら命を落とす事態になりかねない」というのだ。

人はなぜ逃げないのか:(3)「正常化の偏見」という認識の歪み

明治三陸津波、昭和三陸津波、チリ津波(1960年)など度々犠牲者を出し、防災意識は高いとされる宮城県気仙沼市を2003年、震度5強の地震が襲った。そのときの住民の行動についての調査結果が紹介されている。

  • 「地震が起こったとき、あなたは津波を想起しましたか」という問いに、87%の人が「思い浮かべた」と回答
  • 「その結果、津波が来ると思いましたか」という問いには「来る」「来る可能性が高い」が合わせて63%
  • さらに「身に危険が及ぶと思った」「危険が及ぶ可能性が高いと思った」と考えた人は合わせて29%だった
  • そして実際に逃げた人は1.7%だった

地震が起こり、100人のうち87人が津波を思い浮かべ、63人が津波が来そうだと予測した。しかし自分の身の危険を考えた人は29人にまで減り、実際に逃げた人はわずか2人だった。

片田さんはこの結果を踏まえ、防災を考えるときには「津波のことを知る以上に、災害に対峙した人間の心の状態を知ることのほうが重要」だという。人間は嫌なことが来るといわれるとそれに対応するのはすごく弱い、と。

これは「正常化の偏見」(よく「正常性バイアス」とも紹介される)という、人が陥りやすい認知バイアス(ものごとの捉え方の歪み)のひとつだ。
異常な事態に遭遇しても「大丈夫だ」と思いこもうとし、心の平静をなんとか保つ努力をする。しかし一方で「心配でしようがないから情報収集に走る。情報収集に走るがゆえに、なおさら避難しない。そして、避難していない自分を正当化する理由を探すと簡単に見つかる。このようにガチガチに固められた中で、結局、逃げられない」ということが起こってしまう。
あなたは身近に災害が起こったとき、(後から考えてみれば)本来とるべきだった行動の代わりに、インターネットなどでひたすら情報収集に没頭してしまった経験はないだろうか。ぼくにはある。

つまり、津波を感知するシステムや情報伝達ネットワークがいくら発達しようが、情報を得ても人は逃げようとしないという習性が最後の障壁になる。「災害に強い住民であるためには、まず、災害に接した自分が逃げようとしないことを自分自身が理解していることが重要であり、そのうえで、それを押して行動に移ることができる理性が必要なのです」と片田さんはいう。
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雪の小高で活動 大雪の中12時間かかって帰京する(援人号南相馬行き 0207便)

Posted on 2014年2月13日. Filed under: 未分類 | タグ: , |

ボランティアチーム援人0207便(活動日:2014年2月8日土曜日)、南相馬市小高区の避難指示解除準備区域でのお手伝いのメモ。

早朝、二本松から浜通りへと伸びる県道12号を行く。
真っ暗な飯舘村で、青ランプを点灯させた防犯パトロール車とすれ違う。こんな時間でも走ってるんだな、と少し驚き、いやこんな時間だからこそか、と思う。ご苦労様です、と声をかけたい。

朝食時に買った福島民友の一面には、双葉町、大熊町、楢葉町と交渉が進んできた放射性廃棄物の中間貯蔵施設の再検討問題と、ソチオリンピック開幕の話題が、ほぼ同格で並んでいた。福島県の他には、こんな組み方をしている新聞はないだろう。

今朝の福島民友の一面。双葉町、大熊町、楢葉町の中間貯蔵施設の再検討問題とソチ五輪開幕の話題が、ほぼ同格で並んでいる。

この日は関東から東北にかけて広い地域が大雪に見舞われるという天気予報だった。
比較的温暖な浜通りにある南相馬も例外ではなく、小高区に入る頃には道路は真っ白になりつつあり、ボラセンに着くと雪はさらに強く降りはじめた。

南相馬市小高区でボランティア(援人 0207便)

この日のお手伝い先はセンターから西方向へ5kmほど行った農地で、ビニールハウス3棟の解体と周辺の草刈り。

南相馬市小高区でボランティア(援人 0207便)

小高ボラセン(南相馬市ボランティア活動センター)は、相当の悪天候でも滅多に活動中止にはならない。このことには賛否両論あるとは思うが、援人も現地にたどり着ける限り、極力活動に(もちろん自己責任で)参加するようにしている。
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南相馬市小高区で家財片付けのお手伝い 捨てられなかった消防団の半纏の話(援人 0705便)

Posted on 2013年7月10日. Filed under: 未分類 | タグ: , , , |

ボランティアチーム援人、2013年7月6日(土)の南相馬市小高区でのお手伝いのメモ。

とても暑い日だった。
南相馬に着いた早朝にはもう日射しはギラギラと強く、小高のセンターに着いて朝礼を待つ間もムッとくる暑さにげんなりし、お手伝い中は流れる汗が目に浸みて痛かった。お手伝いを終えて入浴した後もまた暑かった。

最近の小高では、さまざまな工事の立て看板を見かける。

小高のセンターに着く前、常磐線の陸橋を降りてすぐの道路では水道管の取り換え工事が行われていた。こういう光景を見ると、復旧は遅くても着実に進んでいるんだな、と思う。

南相馬小高区で被災財片付けのお手伝い(ボランティアチーム援人)

センター長による朝礼やマッチングの間、センターに住みついた白猫(名前は「チロ」というらしい)はボランティアたちの周りでマイペースにくつろいでいた。

南相馬小高区で被災財片付けのお手伝い(ボランティアチーム援人)
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ゆるい東北旅行 2013年4月版(花見山公園、南三陸、気仙沼バル、三春滝桜、いわき)

Posted on 2013年4月22日. Filed under: 未分類 | タグ: , , |

2013年4月19日(金)から21日(日)にかけて、久々にボランティアなしの東北行き。深夜の東北道を眺めながら気負うこともなく、観光客として東北を楽しんできた。以下、写真多めのダラダラ報告です。

金曜夜に東京を出て、翌早朝、まずは福島市に到着。目当ては花見山公園。ソメイヨシノはやや盛りを過ぎていたけど、こじんまりとした里山は、さまざまな花が咲き競い合っていた。

花見山公園 福島市(東北トリップ)

山頂近くからは、遠景に雪をかぶった山々がきれいに見えた。

花見山公園 福島市(東北トリップ)
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小高区飯崎でのお手伝い 「震災直後のまま」という表現すら生易しいと思えるお宅で(援人 0412便)

Posted on 2013年4月15日. Filed under: 未分類 | タグ: , , , |

ボランティアチーム援人0412便、2013年4月13日(土)の南相馬市小高区でのお手伝いの記録。

今回は車2台に16人のメンバー。震災以後東北に何度も足を運んでいるメンバーはもちろん、震災後の東北行きは初めて、つまり初ボランティアの人まで、さまざまな参加者が揃った。

ぼくたちリピーターは、被災地にお手伝いに行き続けることの価値を信じている。そして、今でも外に向けて「一緒にお手伝いに行きませんか」と声をあげると、それに応えて新たに流れに加わってくれるメンバーがいることにはとても励まされる。

二本松インターチェンジをおりると、プチ桜並木が目の前に見えた。関東に遅れること二週間、福島でも桜が続々と開花中だ。

南相馬小高区で災害ボランティア(援人 2013年4月13日) Volunteer at Minamisoma, Fukushima. Affrected by the Tsunami of Japan Earthquake and Fukushima Daiichi nuclear plant accident.

今回のお手伝い先は、小高区飯崎。ボラセンから1.5kmから2kmほど南西に行った地域だ。

南相馬小高区で災害ボランティア(援人 2013年4月13日) Volunteer at Minamisoma, Fukushima. Affrected by the Tsunami of Japan Earthquake and Fukushima Daiichi nuclear plant accident.

ご依頼主は、シニアの小柄な女性Aさん。現在は原町区のアパートに住み、小高区のお宅まで月1回片付けに通っていて、ボランティアに頼むのは初めてだと仰っていた。

広い敷地内に家が二つ、離れのような建物が二つ、蔵(震災でダメージを受け、取り壊す予定)、納屋が二つ、そしてガレージがあるお宅だった。

依頼票の内容は、納屋一つ分の収納物の分別、畑のビニールハウス解体、そして草刈りだ。しかし敷地内を歩くと、他にも物が置かれた場所はいくつかあり、片づけた方がよさそうなものも散在していた。そして依頼主のAさんは、ぼくらの作業中、家の中を一人でコツコツと整理している。
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小高区上根沢でお手伝い 忘れられない「70cmのゴミ袋にものを詰め込む」話(援人 0329便)

Posted on 2013年4月1日. Filed under: 未分類 | タグ: , , , |

ボランティアチーム援人、ワゴン援人号0329便、南相馬でのお手伝いの記録。

災害の復旧・復興に関わるボランティアなどが事前申請によって高速道路を無料で通行できる「災害派遣等従事車両証明書」の発行。この制度は東日本大震災の発災から2年間にわたって続いたが、2013年3月末をもってついに終了した。
今回は、この証明書を利用させてもらう最後のお手伝いとなった。

災害派遣等従事車両証明書、2013年3月末日で終了

ボランティアは自弁(自分で賄う)が基本だが、高額な高速料金の負担なしに東北へ何度もお手伝いに行くことができたのは本当にありがたかった。国や公的機関がボランティアに与えてくれていた“補助輪”だったと思う。

もちろんニーズはまだあるのだから、これからも援人はお手伝いを続けるつもりだ。だけどこういう機会は、今やっているお手伝いの意義をもう一段掘り下げて自分に問うべきときでもあるんだと思う。

3月30日(土)は、南相馬市小高区上根沢という地域でのお手伝いだった。
区役所から1kmほど南下し、沿岸から3kmほど内陸にあり、屋外の放射線量は1μSv/hから1.5μSv/hと比較的高いところだ。

敷地内には家が三棟あり、田んぼも二段、それぞれ三~五枚ととても広い。
このお宅は実は援人が昨年11月にもお手伝いに伺ったところだが(ぼくは不参加)、今回はやり残した場所を中心に草刈りのお手伝いとなった。女性も含めメンバー10人全員が刈払機を携えて小チームを組み、方々に散らばった。

南相馬小高区上根沢でお手伝い(援人 2013年3月30日) Volunteer at Minamisoma, Fukushima. Affrected by the Tsunami of Japan Earthquake and Fukushima Daiichi nuclear plant accident.
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「いずれ帰る」という人がいる限り、お手伝いを続けよう(南相馬での2013年3月9日・10日 援人)

Posted on 2013年3月17日. Filed under: 未分類 | タグ: , , , |

ボランティアチーム援人、2013年3月9日(土)と10日(日)、週末2日間の南相馬でのお手伝いの記録。

また3月11日がやってきた。東日本大震災から2年めのその日を目前にした週末、ぼくらだけでなく多くのボランティア仲間が東北へ向かっていた。

こないだ読売新聞の全国世論調査で、「被災地の復興が進んでいないと思う」人は69%いるが、被災地の復興のためやっていることが「とくにない」人は22%で昨年の10%から倍増したという奇妙な結果を見た。

震災後に被災地に足を運び続けている者なら、発災直後の切羽詰まった状況はさすがにもうない代わりに、まだやめられない理由も見える。だからぼくらは続けている。
それに加えて、今の被災地の姿を自分の目と頭でしっかり捉えて、東北から心が離れがちな東京圏で伝えるのも重要な役割なのだな、と改めて思う。

朝、原町のセブンイレブンに陳列されていた「バタしょっと」。南相馬の小学生と共に製菓メーカーがつくったというスナックで、東京で探すと全然見つからない。南相馬には沢山あるみたいだ。

南相馬でお手伝い(援人 2013年3月9日・10日) Volunteer at Minamisoma, Fukushima. Affrected by the Tsunami of Japan Earthquake and Fukushima Daiichi nuclear plant accident.

1日めのお手伝いは、ボラセンからそう遠くない小高区大井の事業所だった。

南相馬でお手伝い(援人 2013年3月9日・10日) Volunteer at Minamisoma, Fukushima. Affrected by the Tsunami of Japan Earthquake and Fukushima Daiichi nuclear plant accident.

内容は、側溝の泥出し(他チームから引き継ぎ)、枯れた植木の伐採。そして隣接する個人のお宅の庭に選り分けられた枯れ木・雑草、ビニールハウスのシート、プラスチックなどの被災財をトンパックに詰め敷地の端に並べること。

この日、気温は初夏並みに上がり、暑さと埃の中で、枯れても屈強な茎を持つセイタカアワダチソウをトンパックに押し込む作業はなかなかハードだった。

南相馬でお手伝い(援人 2013年3月9日・10日) Volunteer at Minamisoma, Fukushima. Affrected by the Tsunami of Japan Earthquake and Fukushima Daiichi nuclear plant accident.
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