「ヨブ呼んでるよ」(鳥公園 こまばアゴラ劇場)

Posted on 2017年3月22日. Filed under: play | タグ: |

「ヨブ呼んでるよ」(鳥公園)、こまばアゴラ劇場で。

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最近足りてない不条理成分を補充できるかな、とちょっと期待して。

舞台に立つ女(「希帆(きほ)」と名乗る)は綺麗だが、これは女の夢であり、現実の女はかなり肥満で生活も荒れまくっていることが示唆される。

女の部屋のテーブルの穴から突如現れた男は「タカオちゃん」と名乗り、夢の常連だ。ただ今回は、夢に登場するだけでなく会話にも成功する。

女はシングルマザーだ(兄だとわかる男との会話からわかってくる)。兄が定期的にやってくるが、精神的に弱い女に対して「正しさ」を諭し「矯正」しようと追い打ちをかける。

夢の中のタカオちゃんはなぜかアパートの大家(女性)の夢にも登場し、蒸発した夫になる。女性は、実際の夫とは違うけどこの顔でしか思い出せない、夢ってそういうことあるでしょ、と(このように夢ならではのギミックがいくつかある)。大家はアパートにひきこもる女を訪ねる。家賃督促のためだが、そこでも希帆は同情され、そして相手の価値基準で救済されようとすることを強く拒絶する。

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このように現実と夢が継ぎ目なく変転し(後でTwitterを見ると夢をどんどん降りていく、という表現をしている人もいたなぁ)、聖書からの引用がスラスラと口から出てきたり(登場人物に何かが急に憑依するようにも見えた)、無表情に踊りながら理解されない辛さをディスるなど(異化効果を感じた)、演劇ならではの表現に掴まれる瞬間が何度か。女が酒を超スローにのみ惑溺するシーンは、すごいなぁと思ったり。

結末は貧困女性のドキュメンタリーにあるような紋切型っぽく感じられ、やや未消化だと感じた。

希帆、タカオちゃん、ガテン系の兄、チャラけた関西弁の後輩、女性の大家さん。全員が役にハマっていた。こんな俳優たちがいるんだ、裾野が広いなぁと感心した(素人感想)。

チラシを読んで想像していたストーリーの深みはあまりなかったが、ならではの報酬はあった。

(しかし演劇のレビューってのは難しいなぁ。)

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「ハムレット」(野村萬斎 2003年 世田谷パブリックシアター収録)

Posted on 2017年1月6日. Filed under: play | タグ: , |

DVD「ハムレット」(2003年 世田谷パブリックシアター収録)を観た。

正月に観ようと思ったがすぐ寝てしまい(笑)、数日かかって観たもの。

主演(ハムレット)は野村萬斎 a.k.a. シン・ゴジラの中の人。
彼が演じるハムレットはかなり激情型だ。「尼寺へ行けぇーっ!!!」(絶叫)という具合。正直あまり感情移入できないタイプだなぁ、と感じながら観ていた。

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全体的に配役が全体にマッチョな印象だ。叔父クローディアスが強そう。さらにポローニアスは一番喧嘩が強そうだ。全員強面のイメージだから、懊悩があまり伝わってこないのだ。
全キャストが男優だが(調べてみると、元々シェークスピア劇は男優だけで演じていたそうだが)、女性役は女形のように様式的ではなく本当に女性的に振る舞っている。特にオフィーリアはとてもいい。演じた中村芝のぶは歌舞伎役者だという。

津嘉山正種が先王(亡霊)・座長・墓掘りと、三役も演じている。彼の声や存在感はとても好きなのだが、三役を一人でやっているのは一体どういう意図なのか。特に父王と座長を一人が演じるのは、元の話にはない別の意味を生み出してしまいそうだが。

自分がなぜハムレットをこんなに観たいのかわからない部分があるが、ハムレットという非常に多義的で深淵な人物をイメージにぴったり合うかたちで観たいという願望は少なくともあるようだ。
その意味で、萬斎ハムレットは残念ながらちょっと期待外れだった。

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「愛のおわり」(作:パスカル・ランベール 於:こまばアゴラ劇場)

Posted on 2016年12月30日. Filed under: play | タグ: |

「愛のおわり」、2016年12月28日、こまばアゴラ劇場で。

男女2人の会話劇、あり得ないほど冗長な。リアルな乱入者による攻守交代、“もし観客がいたら”といった台詞、狭い劇場、それらが相まってこちらも第四の壁を壊してしまいそうな緊迫感で見つめた。苦行だが言葉の奔流にいつまでも身を浸していたいような2時間だった。

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パスカル・ランペール作(“フランス随一の劇作家”らしい)、“アヴィニヨン演劇祭で大絶賛を浴びた”作品だという(…それがどれだけ価値あることなのかよくわからないのだが)。

2時間20分にわたって、一組の男女が別れ話を延々するという演劇だった。
最初男があらゆるレトリックを駆使して話し続け、中盤のアクシデントで今度は攻守交代、女が男の主張を次々ひっくり返していく。

「言葉によって紡いできた関係を全て壊した」
「形のあるものは全部あげる。私は形のないものを取っておく」

などハッとさせられる台詞は、女の方に多い。

シンプルな構成であり、糖衣で包まれたエンターテイメントとはほど遠い。苦行のようだ。

が、「ここは舞台じゃない」「もし私たちのやり取りを観客席が見ていたら」といったメタな台詞が、自分は私的世界を覗き見ているのだというスリルを高める。さらにこまばアゴラの窮屈な観客席は、今にも向こう側から、だけでなくこちら側からも「第四の壁」を破ってしまいそうな環境だ。…といった効果も相まって、終始飽きることはなかった。

筋は面白いと感じなかったが、一回性、その場性を味わうという点で脳みその広い範囲が刺激されるような体験だった。こういうのもあるのか!と。

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東北地区高等学校演劇発表会を観に行った(「いつか、その日に」「ジョシ」「よろずやマリー」感想)

Posted on 2016年12月30日. Filed under: play | タグ: |

第49回 東北地区高等学校演劇発表会、2016年12月24日(土)、3日間開催のうち2日目を観に行った。場所は福島県いわき市のいわき芸術文化交流館アリオス。

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以下、印象に残った3本の感想。

福島県代表 相馬農業高校飯舘校 「サテライト仮想劇 いつか、その日に」

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コンクリの堅牢な校舎でなくプレハブの“やわらかい床”での学校生活。高校生にとって避難の5年は“ずっと続く”と同義。福島市にある同校の生徒の8割は飯舘村と無関係。が、ある日とつぜん学校の帰村で引き裂かれる、というIf。すごい劇だった。

福島市内の高校に間借りするプレハブ校舎。生徒の8割は飯舘に関係がない。学校が帰村を決め、通学を希望しない生徒らは転校に。原発事故という大きな物語ではなく、彼らにとっては高校の3年間こそが大切なのだ、と気づかされる。

宮城県代表 恭敬学園北海道芸術高校仙台サテライト 「ジョシ」

四番目は宮城県代表、恭敬学園北海道芸術高校仙台サテライトの「ジョシ」。女優二人だけ、シチュエーションはほぼ単一、大人の台詞劇、と高校生“らしい”アドバンテージは捨てた舞台だったが、面白かったなぁ。二人が役にピッタリはまっていた。

福島県代表 県立大沼高校 「よろずやマリー」

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最後は、福島県代表、県立大沼高校の「よろずやマリー」という演劇だった。

観終わって、前日の土曜日、南相馬・小高のお手伝いでの出来事を思い出した。小高駅近くのエンガワ商店の前にクルマを停めて昼食を食べていた。すると、ぼくらをボランティアと認めた男性がこう話しかけてきた。

皆さんがボランティア活動をする際、イノシシなどをよく見かけることはあるか?と。

彼は、南相馬市博物館の人だということだった。

「よろずやマリー」は、あばらやのような古道具屋風のセットで話が進む。店主は気難しいマリーという女性。店の中央にはアンティークのルームランプがあり、彼女はそれを大切に思っている。

いつの時代のどこの国の話なのか示されないのだが、冒頭で「イノシシ」という言葉が出てきて、ちょっとだけ引っかかる。

彼女は偏屈で、周りから嫌われているらしい。ガラス窓が割られ、会場のほうぼうに配された俳優たちから罵声が飛ぶ。

「出ていけ!」
「帰れ!」

そして。

「賠償金もらっていい思いしやがって!」

マリーは避難指示区域から逃れてきた。
被災直後、彼女は避難先の体育館で子どもの遊び相手として献身した。
店内に集めていたガラクタ(としか他人の目に映らないもの)は、瓦礫の中から拾い集めたものだった。
大切にしているルームランプは、彼女が「ダーリン」と呼ぶ男性と一緒に買った思い出の品だ。
苦境に陥ったとき彼女が黒電話からダーリン宛てにかける電話は、実はどこにもつながっていなかった。彼は消防団員で、津波で亡くなっていたのだ。

…と、あざといほど原発事故以後の状況を取り込んだ物語に、正直面食らった。

自ら高校生役を演じる役者たちは、当時小学生だった。彼ら自身がその一部となっている劇を見て、たとえ濃厚だろうが薄味だろうが、高尚だろうが浅はかだろうが、ともかくあの事故が起こってしまった影響は影響圏内にある人に深く刻みつけられたのだ、と強く印象づけられた。

同時にこんな思いを持った。高校生達よ、きみたちがやりくりすべき状況や悩みは、ぼくが安閑と過ごした高校時代に比べてあまりにも重すぎる、と。

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「ゴドーを待ちながら」(こまばアゴラ劇場)

Posted on 2016年10月30日. Filed under: play | タグ: , |

サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」、こまばアゴラ劇場で(2016年10月20日)。
20代の頃から機会があれば観てみたいと思っていた。たまたま公演情報が目に留まったので行ってみた。

現代風にアレンジされたものなどではなく“正統な”ものが観たいと思ったが、調べてみるとベケットの演劇は改変は一切許されていないんだとか。

ゴドーを待ちながら

平日の午後なのに満席だった。東京は文化が厚いなぁと思った。観客で目立っていたのは演劇系知的女性、それと文芸評論家っぽい風貌の壮年男性など。

劇場は狭く、舞台と観客席は地続きでエストラゴンの靴の臭いが本当に漂ってきそうな距離だ。観に来た甲斐がある。しかしクッションが極薄のスタッキング椅子で3時間もゴドーを待ち続けるのは、なかなかの苦行だとやがて思い知る。尻が痛いので前傾姿勢を取ると、今度は首が凝ってきたり…。

キャストで最も意外だったのはポッツォだ。戯曲を読んだときは小太りの成金みたいなイメージを持ったが、登場した俳優の中で最もガタイがよく恫喝の声も本当に怖く、この点が全体に大きく影響していたと思う(悪いという意味ではない。そういう解釈なのだな、と)。

原田大二郎演じるエストラゴンは、第二幕終盤の独白が特によかった。彼が“主役”だと感じた。

戯曲とは違う気づきが終始あり、芸術(気恥ずかしいが、他にいい言葉も思いつかないので)はやはり演出・コンテクスクトなのだなと思った。俳優たちに魅せられているうち、(新訳ということもあるだろうが)気に留めていなかった台詞が立ち上がり、刺さってくる。

戯曲本(白水社版)の解説に、この劇の構造は“収縮していく円環”だとあった。二幕は一幕の繰り返しで、より端折ったものになっている。その点をなんとなく意識しながら観た。

ベケットはこの作品を“おそらくの演劇”だと語ったという。不条理劇なので解釈は好き勝手にできるのだが、エストラゴンが使いの少年に「ゴドーに伝えてくれ。私に会ったと!」と言うとき、漂う哀切さは何なのか。
“いつやってくるかもわからないゴドーを、何を(どんな暇つぶしを)してやり過ごすか”と捉えれば、次の台詞も活きてくる。

「むだな議論で時間を費やすべきじゃない。なんとかすべきだ。機会をのがさず! 誰かがわたしたちを必要とするのは毎日ってわけじゃないんだ。実のところ、今だって、正確にいえば、わたしたちが必要なんじゃない。ほかの人間だって、この仕事はやってのけるに違いない。わたしたちよりうまいかどうか、そりゃ別としてもだ。われわれの聞いた呼び声は、むしろ、人類全体に向けられているわけだ。ただ、今日ただいま、この場では、人類はすなわちわれわれ二人だ。これは、われわれが好むと好まざるとにかかわらない。この立場は、手おくれにならないうちに利用すべきだ。運悪く人類に生まれついたからには、せめて一度ぐらいはりっぱにこの生物を代表すべきだ。どうだね?」
(安堂信也氏・高橋康也氏の共訳。今回は川井祥一郎氏の新訳)

しかしこの劇の中のこのように一つながりで意味をもった台詞はほとんどなく、道徳劇と解釈するのは皮相かもしれない。引っかけ問題か。
でもぼくという受容器はそのように(も)観たということを残しておく。

面白かった。観に行ってよかった。

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