演劇

「三人家族2017」(福島県立小名浜高校演劇部)を観た

Posted on 2017年8月10日. Filed under: 演劇 |

九州・朝倉に災害ボランティアに行ったとき、“聞かれもしないのに自分のボラ歴を喋りまくるおじさん”がいた。彼はあるアイテムを身に着けていて「これは岩泉町でもらった」と周りに話すのだが、ほとんどが福岡や九州北部の市町から駆けつけた他のボランティアたちの反応は、薄かった。その様子を見ていて、あ~西日本の人ははるか北の岩手県にある町なんて知らない、ピンとこないのだと思った。

「三人家族2017」(福島県立小名浜高校演劇部)、調布せんがわ劇場で観た。

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受付近くに演劇にはあまり関心がなさそうなスーツ姿の男たちがいるなと思ったら、吉野復興大臣とそのお付きの人たちだった。大臣はぼくの二列前に座り、最後まできちんと観ていた(途中で抜けるんだろうなぁ、と思っていた)。

ストーリーは、いわきにある寺の跡取り兄弟(男子高校生)をめぐるもの。
父親である住職は震災時に避難をせず、沢山の犠牲者のために卒塔婆を書き続け弔うなどの無理によって早世。檀家は兄弟に寺を継いでほしいと迫る。東京の大学進学をめざす彼女と共に上京を考えていた長男だが、最終的には残って継ぐ決意をする。
彼女の父親は福島第一原発で働く東電社員で、震災後に母親と彼女だけはいわきに家を移した。そこで周りから露骨な嫌がらせを受けたことが語られ、「私たちは加害者家族だから」と吐き出す。

被災した県内の分断。被害者が別の被害者を責める──。わかるのだが、6年以上たった今もここまで先鋭だろうか? これらの問題は沈静化すると共に、より深いところや別のところで問題が起こっているのが現在ではないか? ここまで図式的であるべきだろうか? といった疑問も持った。
去年、福島県高校演劇コンクールで最優秀賞になった「よろずやマリー」(大沼学校)を観た際も、かなり感動はしたのだが、同じように感じたことを思い出す。

芝居は、寺を継ぐことを決意した長男が、3月11日に亡くなった人たちのためにも…とお経を上げるシーンで終わる。うーん、これまでの物語はここに向かう前段だったのだろうか? ちょっと道徳劇っぽさが強いな、とも感じた。

芝居が終わった後、小名浜高校の生徒による福島の現状を伝えるプレゼンが10分。その後マイクを渡された吉野復興相は、こんな話をした。

「現場は努力している。しかし東電経営層や国の責任は追求すべき」
「双葉郡で猪が暴れる番組をやったら会津のホテルがキャンセルされたという。風評被害の払拭に全力を尽くしていく」

直截素朴な人だなぁ。

「三人家族2017」は、福島発とはいえ図式化されてすぎているのでは、実感に根差しているのだろうか(一番知りたいのはこの点かもしれない)、という疑念を少し持った。

ただ、岩泉を知らない北九州の人たちの例のように、福島から離れた地域であればあるほど初期の原発事故のイメージのみ残り、現在の情報は頭に入っていない人が多いだろう。双葉郡の荒廃を報じて会津のホテルがキャンセルされるなど、ほとんど何もわかっていない人たちが確実にいるということだろう。

その意味で、こういう演劇も力を持つべきなのかなとも思える。

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「Are you wearing the clothes?」(リクウズルーム×努力クラブ こまばアゴラ劇場)を観た

Posted on 2017年8月9日. Filed under: 演劇 |

2017年8月8日(火)、「Are you wearing the clothes?」(リクウズルーム×努力クラブ)を観た。こまばアゴラ劇場で。

100分超の芝居だったが、2人の作家が分担して脚本を書いたためなのか(登場人物の台詞をそれぞれが書き分けたんだとか=Twitter情報)異質の世界がぶつかり合うような味わいがあり、体感的に2.5本分ぐらいの満腹感があった。

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途中、去年見た「愛のおわり」(パスカル・ランベール)ですごい演技をしていた女優(兵藤公美)が出てきた。彼女を見ているだけでも飽きなかったのだが、(恐らく)時流を反映した物語で、なかなか惹きつけられた。

(以下、記憶の怪しいあらすじ。)
主人公、シニカルな若い女。
ニセ柳ニセ子という黒柳徹子のパロディーのような女が登場、対談がはじま…らない。
ニセ子には忠実な召使がいるが、殺してしまう。
彼女のメイク役の女によって、ニセ子の正体は蛇だと明かされる。
正体がバレたニセ子は「呪」と大書かれた紙を世界中に貼りはじめ、人々をそのためのツアーに動員していく。

一方、合理化する世界に抗する“面倒臭いもの”として、多分にカリカチュアされたオーガニックおばさんが現れる。私はオーガニックコットンしか着ない、そりゃあオーガニックだねぇ(オーガニック落語)などのくだりは観客の爆笑を誘っていた。

ニセ子のツアーは蔓延していき、オーガニックおばさんたちも取り込まれる(正確にはおばさんがニセ子=蛇をかじることで一派になる、だったか)。

最初はそれに抵抗していた(主人公を愛する)男も、孤独になりたくないため付和雷同していく。その過程でニセ子が煽る「呪」は時代がかったものなどでなく、カジュアルな遊びだということが周りからの男への嘲笑によって示される(今のソーシャルの、誰も深刻な結果など考えずカジュアルに人を叩くこと、とその重畳的効果への風刺だろうなぁ、とか)。

ツアー参加者たちが突然“ふわふわした感じ”に包まれ、高揚の中で世界は消滅する(BGM: SEKAI NO OWARI – Dragon Night)。
冒頭のシニカルな少女がそれを高みから眺め、「茶番だ」とつぶやく。

世界は消えたはずだが、少女の生活は再開される。なぜか今はいないはずの母親や弟、日常が戻ってくる。
少女を愛する男が公園で待っている。待っている間さまざまな人間が現れ、自分の望みだけを表したような言葉で男に絡み、そして去っていく(この不条理なシーンはとてもよかった)。

公園に現れた少女は、男が言葉を発するとその欺瞞を次々と突いていく。そして去る。
最後、諦めきれない男だけが残る(じわじわと純愛がいぶり出される、と感じた)。

椅子をいくつか置いただけでそこが対話室だと感じられるとか、日常生活ではまず許されないシュールな言葉を、発話されるそばから頭の中に入れていくうち脳みそが覚醒してくるとか(そういうのがぼくにとっては芝居を観に行きたくなるカタルシスなのだが)、そういういい感じがあった(陳腐な感想だなぁ…)。

加えて、爆笑シーンの数々やコール&レスポンスで観客をあたためつつ、(Twitterで誰かが書いていたことを少しパクると)こちらは全てを観測できないが、確かに存在する世界のルール(それも複線あって交わったり離れたりしている)を断片的に覗き見ている、と思わせられるような謎かけ的面白さが提示されていた。

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「預言者Q太郎の一生」(ヤリナゲ)を観た

Posted on 2017年7月21日. Filed under: 演劇 |

「預言者Q太郎の一生」(ヤリナゲ)をこまばアゴラ劇場で観た。

満席で、追加席も設けていた様子。客席はなかなかにぎやかで、開演に向けあったまっている感じがした。

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日本一汚いといわれる手賀沼の“湾岸”で展開するイエス・キリストの物語。

預言者の誕生から死までが、その墓前で母が娘に手記を手渡した中身に沿って芝居が展開していく、というかたちで語られていく。
テンポのよいコントをやる三賢人も登場するなどゲラゲラ笑わせるテンションを保ちつつ、コミュニケーションや事物の本質にサラッと触れる台詞が時々差し込まれたりする(割合は10%ぐらい)。

観ているうち、これは預言者でなく処女懐胎したマリア(みちる)の物語なのだと思った。Q太郎へのいじめ加担、家族の新興宗教狂い、アイドルデビュー、リベンジポルノ、北との戦争、慰安婦への転身──など、流転と汚濁の中での。

このままコミカルでテンポのよい変な話として終わるのかな、それでもまぁ満足度はなかなか高いな、と思っていた頃、転回が──仮に演劇的感動と名づけておくが、起こった。

みちるは、気乗りしないままやっていたアイドルを元彼氏のリベンジポルノによって引退せざるを得なくなり、北との戦争が突然始まり、慰安婦として(劇中ではそういう呼称ではなかったが)さまざまな国の男を相手にすることになる。そして突然彼ら一人ひとりも人間なのだと理解し、そこから自分とQ太郎との関係は本質的なものであったかを振り返る。Q太郎が登場、エコーを効かせたマイクで調子っぱずれな「世界に一つだけの花」を歌う、というシーンだ。

みちるは(男女の同衾を暗喩すると思われる)シーツをかぶり観客に背を向けて立っているのだが、それが宗教画のマリアのようなイメージで、ハッとさせられたのだ。

みちるを演じていたのは永井久喜(ひさき、と読むらしい)さんという女優さん。動きも声も微妙に引っかかるのだが、それが印象に残った。この人が出る芝居をまた観てみたい。

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「すがれる」(鳥公園)を観た

Posted on 2017年7月7日. Filed under: 演劇 |

「すがれる」(鳥公園)を観た。こまばアゴラ劇場で。

関係ないけど、駒場東大前から劇場に行く途中にあるパン屋さんは雰囲気がよい。三角形の蒸しパンとドラえもん顔のパンを買ったが、後で見るとドラえもんパンの裏には「アンパンマンパン」というシールが貼ってあった。

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話を戻して。

鳥公園は、前回観た「ヨブ呼んでるよ」が妙に面白かったので、洒落たタイポグラフィーで台詞を箴言的にあしらったチラシを見た段階で期待が高まっていた。で、本編もよかった。

老作家の生涯を描いているのだが、主人公を女と男の役者が演じ継いだり、禿頭のまま子ども時代を演じたり、ズレがある。

度々描かれるおしっこ、小道具やシーン。排泄の随意・不随意を通じて、人間の感情や行動がままならないものであることを仄めかしているのだろうか。

武井翔子という、高畑充希のケンカの強いお姉さん的女優の存在感、特に口吻が前回と同じくいい。“あたい”と名乗る金魚を演じたシーンでは、不思議なキュートさを醸し出していた。

アホっぽい感想だが、同じように不条理な状況を描く演劇であっても、語り口によって退屈、苛立ち、愛着など浮かんでくる思いは色々なんだなぁと感じた。鳥公園のやり方は気に入っている。入っていくことができる。

話を思い返してひとつ気になった。老作家が担当編集者に、金魚を燃やしながら飛ばして写真を撮り小説の表紙にしてくれ、と頼んだ金魚と、老作家の前で小娘のように振る舞っていた金魚は同一なのだろうか。
どんな意味があるんだろう。

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「さよならだけが人生か」(青年団 吉祥寺シアター)を観た

Posted on 2017年6月29日. Filed under: 演劇 | タグ: |

「さよならだけが人生か」、青年団、吉祥寺シアター。うーん、「南東俘虜記」でも感じたが、どうもこのスタイルに合わないようだ。会話の不連続な立ち上がり、並行、消失といった構造・技巧はすごいと思う。目を惹く俳優も多いし、面白いシーンもある。が、中心のところで没入しきれない感じ。


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…とまあ、Twitterには投稿が、補足しておく。

現場、本社、学生、院生、役人──最大総勢18人(ぐらい)が絡み合うさまは、現代を描いた群像劇としては“あるある”感がそこかしこにあって、爆笑してしまったシーンもあった。

古臭い、と何度も感じた。
山本リンダとか財津一郎とかもう勘弁してほしい。脚本のオリジナルがそうなのだろうが、今もやり続ける意味は? 若い世代は反応していなかった。(学生たちの会話の中身やスマホをいじるシーンなど改訂された部分もあるようだが。それにしても、冒頭の人物たちが延々雑誌を読みふけるシーンで、まず古いなと感じた。「南東俘虜記」では有効な小道具だったかもしれないが。)

リーフレットに載っていた平田オリザ氏の言葉に、“この作品に意味はない。この作品をもって青年団が世間に発見されたのは幸せなことだ”みたいな一節があった。ぼくは彼の本を一冊しか読んだことがなく、またこの劇団の社会的コンテクストの中での立ち位置、みたいなものはわからないが、あまり追究していきたくもないなぁと思った。

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チェルフィッシュ「部屋に流れる時間の旅」感想:“イヤ劇”で味わった7年目の残念

Posted on 2017年6月22日. Filed under: 演劇 |

芝居のはじまり方には、決まったプログラムを流す映画のように「ここから」の定型がない。
それを逆手にとって、観客に気づかれないようひっそりはじめるやり方も見るし、はじまりのシグナルが弱く気づかない観客がまだガサガサやっていたりする、なんてこともある。

チェルフィッシュ、「部屋に流れる時間の旅」。
満席だった。はじまる前には左右の壁沿いに立ち見客も結構いた。

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最初に観客に瞑目させるというやり方は主題とも合っていて、うまい連れて行き方だった。

観ていると、かすかな風、環境音、微動など、アンビエントな舞台装置に気づきはじめる。嫌みがなくセンスがいいと思った。

「あの〇〇の後、明るい気持ちが来たでしょ?」
「あの〇〇が起きて、とてもよかった」

(「〇〇」はネタバレを避けるため…というか字面を見ただけで浅く解釈されることを避けるため、あえて伏せ字にしておく。)

風のそよぐ部屋で、夫婦と思われる男女の会話が続いていく。

が、ずっと妻(ほのか)の問わず語りで進み、男は聞いているのかいないのかも判然とせず、体が奇妙に痙攣したりしている。
“コミュニケーション不能”であること、“ここにはいない”ことを示しているかのようだ。

男の部屋に向かっているが、乗っているバスのトラブルでたどり着けない女(ありさ)。
その女が部屋に現れたとき、ほのかと男、ありさと男は同じ時空にはいないのだと明らかになる。

芝居ではこういう演出はよくあることだが、たった3人の舞台で、このリアリズムからずれた語り口を丁寧に丁寧に広げられると、やっぱりすごいなと思う。(全体にこの芝居は、スープの上澄みを飲んでいるうちにいつの間にか不思議なコクに魅了されている、そんな印象だった。)

妻(ほのか)が、あの〇〇の数日後、外から聞こえてくる自動販売機に缶ジュースを補充するガチャガチャ、ガチャガチャという音で、〇〇から数日しか経っていないのにと驚き、世界はなんてすばらしいんだろうと気づいた、と話すシーンがある。

あの〇〇で、多くの人の感覚が一度開いた。“わかっていなかった”日常のすばらしさに気づいた。
ただ6年たった今は、そのことを「覚えているでしょ?」と問いかけられても、忘れていっている、と気づく。

今、この劇場にいる自分を含む、2017年を生きている我々は、指数関数的に限りなく平らに近づく線の上を生きているのだ。

7年目の残念さ。
小説にイヤミスというジャンルがある。ならばこの芝居は“イヤ劇”ではないのか。

「世の中がすばらしいものに変わっていったその様子を話して聞かせて?」

というほのかの言葉を、観客のうち何人が我がこととして自分の胸に刺したのかはわからないが。

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「雨と猫といくつかの嘘」(青☆組)、しっとりしつつエッジあり、観てよかった

Posted on 2017年5月26日. Filed under: 演劇 |

青☆組、「雨と猫といくつかの嘘」。アトリエ春風舎で観てきた。

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雨や雷鳴が彩る、一人の男の幼年から孤独な老年までの話。

はじまる前から舞台には登場人物が現れたり消えたりし、後の芝居で使うことになる小道具が納められた木箱に座ったりしている。内容をほのめかすものになっていた(と、後から気づく)。

昭和っぽい衣装や台詞回し、メロウな「三丁目の夕日」っぽい感じの話がはじまる。観ていて没入できるか不安だったが、途中からもっていかれることになった。

ある男の幼年時代、結婚して子供が小さな頃の話、子供に恋人や結婚相手ができる頃までのストーリー。

いくつかの挿話。時制を混線させながら、カップラーメン、おかき、寿司(なかでもかっぱ巻)、カフェオレ、猫のぬいぐるみなどのアイテムが継いでいく。たとえば娘の結婚相手に男がすすめたカフェオレは、独立した息子の部屋を訪れたとき、息子の同棲相手(…の属性も話を盛り上げるのだが)に出された思い出があった、と後でわかるなど。

飼い猫が去る場面がリフレインされる。そして二回目では、猫がなぜか人語をしゃべる。これにはやられた。“もしあのとき聞こえていたら”“もし全てがわかっていたら…”という、苦い提示なのだと捉えた。
猫についてはもう一つ。転生したい猫は死ぬときに姿を隠すという話が、別々の人物によって何度か語られる。人生の後悔や一回性を浮かび上がらせるモチーフなんだろう。

会うシーン。会えてよかった。
お茶を飲むシーン。一緒にお茶を飲んで語りあえてよかった。
誕生日のシーン。誕生日を家族に祝ってもらえてよかった。
そういうことか、と振り返ってみて思った。

(さらに…)

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