演劇

チェルフィッシュ「部屋に流れる時間の旅」感想:“イヤ劇”で味わった7年目の残念

Posted on 2017年6月22日. Filed under: 演劇 |

芝居のはじまり方には、決まったプログラムを流す映画のように「ここから」の定型がない。
それを逆手にとって、観客に気づかれないようひっそりはじめるやり方も見るし、はじまりのシグナルが弱く気づかない観客がまだガサガサやっていたりする、なんてこともある。

チェルフィッシュ、「部屋に流れる時間の旅」。
満席だった。はじまる前には左右の壁沿いに立ち見客も結構いた。

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最初に観客に瞑目させるというやり方は主題とも合っていて、うまい連れて行き方だった。

観ていると、かすかな風、環境音、微動など、アンビエントな舞台装置に気づきはじめる。嫌みがなくセンスがいいと思った。

「あの〇〇の後、明るい気持ちが来たでしょ?」
「あの〇〇が起きて、とてもよかった」

(「〇〇」はネタバレを避けるため…というか字面を見ただけで浅く解釈されることを避けるため、あえて伏せ字にしておく。)

風のそよぐ部屋で、夫婦と思われる男女の会話が続いていく。

が、ずっと妻(ほのか)の問わず語りで進み、男は聞いているのかいないのかも判然とせず、体が奇妙に痙攣したりしている。
“コミュニケーション不能”であること、“ここにはいない”ことを示しているかのようだ。

男の部屋に向かっているが、乗っているバスのトラブルでたどり着けない女(ありさ)。
その女が部屋に現れたとき、ほのかと男、ありさと男は同じ時空にはいないのだと明らかになる。

芝居ではこういう演出はよくあることだが、たった3人の舞台で、このリアリズムからずれた語り口を丁寧に丁寧に広げられると、やっぱりすごいなと思う。(全体にこの芝居は、スープの上澄みを飲んでいるうちにいつの間にか不思議なコクに魅了されている、そんな印象だった。)

妻(ほのか)が、あの〇〇の数日後、外から聞こえてくる自動販売機に缶ジュースを補充するガチャガチャ、ガチャガチャという音で、〇〇から数日しか経っていないのにと驚き、世界はなんてすばらしいんだろうと気づいた、と話すシーンがある。

あの〇〇で、多くの人の感覚が一度開いた。“わかっていなかった”日常のすばらしさに気づいた。
ただ6年たった今は、そのことを「覚えているでしょ?」と問いかけられても、忘れていっている、と気づく。

今、この劇場にいる自分を含む、2017年を生きている我々は、指数関数的に限りなく平らに近づく線の上を生きているのだ。

7年目の残念さ。
小説にイヤミスというジャンルがある。ならばこの芝居は“イヤ劇”ではないのか。

「世の中がすばらしいものに変わっていったその様子を話して聞かせて?」

というほのかの言葉を、観客のうち何人が我がこととして自分の胸に刺したのかはわからないが。

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「雨と猫といくつかの嘘」(青☆組)、しっとりしつつエッジあり、観てよかった

Posted on 2017年5月26日. Filed under: 演劇 |

青☆組、「雨と猫といくつかの嘘」。アトリエ春風舎で観てきた。

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雨や雷鳴が彩る、一人の男の幼年から孤独な老年までの話。

はじまる前から舞台には登場人物が現れたり消えたりし、後の芝居で使うことになる小道具が納められた木箱に座ったりしている。内容をほのめかすものになっていた(と、後から気づく)。

昭和っぽい衣装や台詞回し、メロウな「三丁目の夕日」っぽい感じの話がはじまる。観ていて没入できるか不安だったが、途中からもっていかれることになった。

ある男の幼年時代、結婚して子供が小さな頃の話、子供に恋人や結婚相手ができる頃までのストーリー。

いくつかの挿話。時制を混線させながら、カップラーメン、おかき、寿司(なかでもかっぱ巻)、カフェオレ、猫のぬいぐるみなどのアイテムが継いでいく。たとえば娘の結婚相手に男がすすめたカフェオレは、独立した息子の部屋を訪れたとき、息子の同棲相手(…の属性も話を盛り上げるのだが)に出された思い出があった、と後でわかるなど。

飼い猫が去る場面がリフレインされる。そして二回目では、猫がなぜか人語をしゃべる。これにはやられた。“もしあのとき聞こえていたら”“もし全てがわかっていたら…”という、苦い提示なのだと捉えた。
猫についてはもう一つ。転生したい猫は死ぬときに姿を隠すという話が、別々の人物によって何度か語られる。人生の後悔や一回性を浮かび上がらせるモチーフなんだろう。

会うシーン。会えてよかった。
お茶を飲むシーン。一緒にお茶を飲んで語りあえてよかった。
誕生日のシーン。誕生日を家族に祝ってもらえてよかった。
そういうことか、と振り返ってみて思った。

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「エンドルフィン」(モノモース こまばアゴラ劇場)を観たよ

Posted on 2017年5月25日. Filed under: 演劇 |

「エンドルフィン」、モノモース(という3人の演劇ユニットらしい)、こまばアゴラ劇場で。

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水曜夜、ほぼ満席。ゆるいアート系の女性多めか。前の女性の背中に”Atrantic City Playground”と書いてあった。
肩慣らし終わり。

登場した男、「数世代前のAndroid端末」を拾う(この言葉、時代感が出ていていいなと思った)。

スマホ内には「エンドルフィン」という名前の音声ファイルがいくつかあり、それが再生される。と、3人の男女がときには1人を演じ、それ以外にもさまざまな役を演じ分けながら(…らしいが、割と不分明だ)音声を吹き込んだ男の物語を追っていく。

男は“旧・希望の島”というゴミ捨て島(東京の夢の島やフィリピンのスモーキーマウンテンのようなイメージだろう)に、10歳の頃親に軽トラで運び込まれ、捨てられた。

(以後数年の話のはずだが、男の話ぶりは成人らしいもの。)

旧・希望の島は隔絶された環境にあり、“6年前に閉鎖された”という言葉から、これは福島のことを暗喩しているのだろうか? と考えた。そこからずっとストーリーの寓意を探りながら観ていたが、それ以上ディテールは付け足されない(やや落胆した)。

その代わり、男が生き残るため、食料を得るためのグロテスクな挿話がひたすら続く。役者はギャーギャー叫ぶし(揶揄しているのではない。腹の底から出す声の迫真力はすごかった)、動物、特に猫好きにはかなり辛い描写があり、疲れた。

ただ一場面、男と同じく島に捨てられた盲目の少女が(恐らく)子猫を殺す、緊張の頂点で彼女が刃物を引くシーンが強く印象に残った。“スゥッ…”という間近で聞こえ、瞬間、名づけがたいものが体を走った。

芝居、小さな舞台ならではの稀有な瞬間だったろう。
そういえば、役者たちが叫びがちに発話するたびに飛び散る唾のしぶきがずっと気になっていたし、ライトに照らされる埃も目についていた。そういう生理的な感覚がひたひたと積み上がっていたことも、このシーンに鋭敏に反応できた理由なのではないか。
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「あゆみ」「TATAMI」(劇団しようよ)を京都のアトリエ劇研で観た

Posted on 2017年5月17日. Filed under: , 演劇 | タグ: |

「あゆみ」(劇団しようよ)を、京都のアトリエ劇研で観た。
(この劇場は歴史ある小劇場だが今年8月に閉館するらしい。客の入りなどの問題ではなく土地の契約が理由とのこと。)

京都 2017/05/15

若い世代の劇団なのだろうか。そうなんだろうな(そんなこともよく知らずに観に行ったのだが)。

「あゆみ」とは、人生の歩みということらしい。

俳優たちが(おそらく)自分の生まれた日を記した紙を持って並んだり。
紙芝居によるナレーションがあったり。よくも悪くも学生演劇的な、フレッシュな工夫だなと感じた。

ストーリーでも、ゴールが結婚式であることに“この先は想像できないのかな?”という思いをもった(注:オリジナルの脚本を端折ったかどうかについては調べてません)。

全部男優が演じていたのだが、どういう意味があったのか。オリジナル作品と見比べることができないが、恋人たちがイチャつくシーンなどはやはり違和感が拭えなかった。

最後、俳優全員が現れ、役や立ち入りを目まぐるしく変えながらこれまでのシーンのリミックスをやる。構成はいい、俳優たちの動きも練度が高い。「演技の組体操」のようだった。

しかし待てよ、と思った。場面場面をカットバックでつなぐ手法、前日に観た「バージン・ブルース」もそうだった。「あゆみ」は積み重ねられるシーンがより通俗的である分、段々プロモーションビデオのように見えてきた。こういうことをやる必要があるのかな。小劇場の演劇がマスに受ける必要はないのだから、もっと変でも人らしい痕跡が見える“あゆみ”が描けるのでは(脚本の話だが)。

途中までは正直退屈を感じた。ラストは盛り上がりを感じたが、上述のような不満も浮かんだ。

余談。
隣の女性(おそらく大学生)がとても真剣に、身じろぎもせず観ている横で、少し居眠りしてしまった。言い訳すると、京都の土地勘がなく、地下鉄に乗るのが面倒だったので京都駅から劇場まで早歩きをし、結構疲れていたのです(後でキョリ測で見たら8km強あった)。あなたにとって大切だった観賞体験を汚してしまってごめんなさい。

付記。「ままごと」のサイトに2010年版「あゆみ」のダイジェスト映像があった。これは女性版が観てみたかったなぁ。

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「バージン・ブルース」(うさぎストライプ と 親父ブルースブラザーズ こまばアゴラ劇場)を観た

Posted on 2017年5月16日. Filed under: 演劇 |

半蔵門線の中で前のカップルがずっと小声で言い争っていた。「結納」という言葉が何度も聞こえた。

渋谷は輪行袋を持つ人が日本で最も多いターミナルじゃないだろうか。趣味の爛熟が極まってるよな。

肩慣らし終わり。

「バージン・ブルース」(うさぎストライプ と 親父ブルースブラザーズ こまばアゴラ劇場)を観た。

2017-05-14 13.35.45

エンタメは大抵、はじまりますよ(ここからは非現実ですよ)と宣言せざるをえない。
そこをやんわりと乗り越えてくれると新鮮だ。この芝居では、客が席についたときから舞台では洋楽の懐メロが流れており、しばらくすると俳優が登場、クローゼットのネクタイを探しはじめる。こうして芝居がはじまったことにぼくの隣の男性は1分ぐらい気づかず、チラシをガサガサやっていた。

“お父さん”が3人いる娘の結婚式の、控室で始まるドタバタ芝居。普通でない家族という主題だけで一定水準だろう、という安心感があった。

話は、“父”の1人、男なのになぜか巨乳を持つ男の記憶を走馬灯形式でめぐるかたちで進む。彼が主役となった理由は、父たちと花嫁がバージンロードを歩むエンディングで明らかになる。

オッサンが女性的役割を演じるということで、ユーモアは手堅くまぶされている。また有名俳優が出ているためか、今日の観客は反応がよい。他愛もないシーンでドッと沸く。ここ数回観た芝居では硬質な客の塩反応が当たり前だったので、意外だった。

走馬灯というメタファーに応えるように、3人の俳優は場面が変わるとクローゼットの衣装を着替えていく。こういう小規模さを巧く利用した演出はいい。
驚くことに、開場前、受付でスタッフ然としていた男性が結婚式の司会役で登場、以後さまざまな脇役を演じていく。こういうの好きだなぁ。

エンディング、2人の父が(“生みの父”はすでに死んだことが走馬灯劇で明かされている)娘と腕を組み、バージンロードを──となるはずだが、このシーンではもう一つの人生の出来事が含意される。3人の台詞も、それとこれをカットバックでつないでいく。

娘の、普通でない親たちに育てられたが私はとても幸せでした、という台詞。

ベタだと感じたところもあるが、ダブルミーニングの結末に流れ込むストーリーは冴えていたし感動した。隣の女性は泣いていたな。

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「TTTTT(人柱が炎上, 景観の邪魔, 非公式な恋人)」(青年団リンクキュイ アトリエ春風舎)を観た

Posted on 2017年5月7日. Filed under: 演劇 | タグ: |

青年団リンクキュイ「TTTTT」、コンセプトもよくわからなかったが(…というかそもそも劇団のチラシというのはよほど商業的に成功している劇団でもない限り自己満足的で、意味がほとんどわからないものが少なくない)、アトリエ春風舎(小竹向原)まで観に行った。2017年5月6日。

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3本立ての演劇だった。
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「南島俘虜記」(青年団・こまばアゴラ演劇学校無隣館)を観た

Posted on 2017年4月19日. Filed under: 演劇 | タグ: |

南島俘虜記」、こまばアゴラ劇場で、2017年4月16日に観た。

南島俘虜記

14時からの回で、ぼくは10分ぐらい前に入ったが、狭い劇場内はネットに草でカモフラージュした天蓋に覆われ、四方は模造の熱帯植物の葉で囲まれ、野戦陣地のようになっていた。観客席は簡易ベットなどが置かれた舞台を三方から見下ろすようになっている。そこでは捕虜たちがダラけ、台詞も少しずつだが交わされ、ゆるやかに始まっていた。これは面白い。

現代の架空の戦争によって、南の島で捕虜となった日本人兵士たちの怠惰な日常を描く。
特に何が起こるわけでもなく、雑談のネタは言葉遊び、食べ物、セックスなどだ。

退屈な時間を退屈なまま描く演出が、昨日小高でお手伝い2件を完了させた体に残る倦怠感と握手し、途中一度寝落ちしてしまった。小劇場での居眠りは映画館などに比べてかなりハードルが高い。それでも周りを見ると、眠気と戦っている人がそれなりにいるようだった。

「囲われていた方が捕虜って感じがするから」
「もっとまずい飯を出してくれよ」
「アホウドリは助走をつけないと飛べない」
「(戦争が始まるとわかっていてなぜ婚約したのか、と聞かれ)自分だけは死なないと思ったんだろうね。実際死んでないけど、自分だけは」

など、示唆的な台詞もいくつかあった。

会話の中で、東京は敵軍に制空権を完全に握られ空襲によってすでに人口が1/10ぐらいであること、皇族のアフリカの小国への亡命などが語られる。が、それが本筋ではない。

終わらない戦争、辛くない捕虜生活の不条理が強調されるわけでもなく、歴史のifが詳しく語られるわけでもない。心に残るものが少なかった。

この作品が2003年に上演されたとき、作・演出の平田オリザが語った「長い長い魔の退屈の時間」という形容が、今、2017年に相応しいとは思えない。この週末は近年で最も東アジアで武力紛争の可能性が高まった。そこで退屈を語る、観るというのはシュールだろう。また。若者が退屈をもて遊べる「必ず食ふことができ」る時代というのも、終わりつつある。

ということで、この作品もかつての日本の状況を描いた「歴史」の一つということになるんじゃないだろうか。

Twitterなどで他の人のレビューを眺めてみた。
まず内輪のものが多い。次に、「絶望」とか「極限」などという表現を使ったものはピンとこない。うーん、収穫なし。

ところで、これを観る前に大岡昇平の「俘虜記」を(途中まで)読んだが、こっちはさすがに重い名作だ。最後まで読み進めようと思う。

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