演劇

「きゃんと、すたんどみー、なう。」(伊藤企画)を観た

Posted on 2017年9月21日. Filed under: 演劇 |

伊藤企画「きゃんと、すたんどみー、なう。」をアトリエ春風舎で。よかった。

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平田オリザ的な中心のない会話劇がずっと続くのか…と思ったら、途中ドラマがドカッとはじまった。

(最近流行りの)こぼれイクラ丼のように会話の無駄打ちで世界を積み上げていく。
引越し業者へのお茶うけは大抵ハッピーターンだったり、電話の子機がなくなったり、ぎっくり腰になったり。
そして終盤は人物を間引いていき、三姉妹に焦点を当てる構成、沁みた。

ただ、O君が怒鳴り散らした正常をめぐる話と、知的障害の姉と妹たちの話、二兎を追っている感もあったかな。

障害を持つ2人の恋愛。死んだ人が出てきて明瞭な言葉を発すること。そして個人的に引っかかったのはギックリ腰をやった彼の311、死ぬと思いながら二度寝した話(途中で遮られたが)。どれも禁じ手だなぁと思ったが、これらも含めて「正常」の振幅か…って考えが、余日に降ってきた。

観て放り出される芝居、よかった…と感動する芝居、感情の塊はあるが言葉にできない芝居、色々あるが、これは感想を吐き出すことがカタルシスになるような、そんな芝居だった。

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Q「妖精の問題」を観た

Posted on 2017年9月20日. Filed under: 演劇 |

Q「妖精の問題」を観た。

長かった。美醜、障害、性器が登場するほぼ一人芝居で100分以上。

ポリコレ的修正入ったらまず成り立たたない話。

ジャズヴォーカル風にゴキブリの繁殖を語るとか、異様な力量だった。

スピリチュアル系思想(今回は“雑菌”)が観察・揶揄されるのは演劇の流行りなのだろうか? 確かにカリカチュアとして面白い素材であることは間違いないが。

これを観て混み込みの電車で帰るまでがこの芝居の一部始終なんだろうな、と帰りの電車を待ちながら思った。

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記憶に引っかかった台詞やコンセプト。

満員電車に乗れるのは同質化した証し。でないと淘汰されるから。
コンビニは不要な人間を生き長らえさせてしまう。
天才は要らない。平均的な美男美女がいればいい。

ところで今夜の芝居、客席がコの字型だったので他の客の表情がよく見えた。

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みんな気難しそうな、ムッとした表情をしていた。最初それに合わせていたけど、途中から俺は笑いたいんだ、高尚ぶった奴らに合わせる必要はないぞ、とちょっと腹が立ってきた。

映画や芝居は自分1人の嗅覚で選ぶべき。そして鑑賞するときも、周りに物怖じせず自分を解放してやるべきだと思った。

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FUKAIPRODUCE羽衣「瞬間光年」を観た

Posted on 2017年9月7日. Filed under: 演劇 |

FUKAIPRODUCE羽衣「瞬間光年」を観た。こまばアゴラ劇場で。

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珍人物たちのエピソードを連ね、宇宙の消滅までを描くSF劇(ではない)。なんだかすっごい圧でくる。役者はやたらハァハァし、動きは過激で雑。何か深い意図があるはず…と探りつつ観ていたが、考えるのをやめて降参したらウワッと入ってきた。
終盤前の1分休憩は意味がわからなかったが、その後はさらに怒涛のダンスの繰り返しに。これ、演劇と舞踏のミクスチャーなのかなぁ。

(これはこれで)面白かった。なるほど、深井順子という女性が主宰しているのか。新作があったらまた観たい。

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「三人家族2017」(福島県立小名浜高校演劇部)を観た

Posted on 2017年8月10日. Filed under: 演劇 |

九州・朝倉に災害ボランティアに行ったとき、“聞かれもしないのに自分のボラ歴を喋りまくるおじさん”がいた。彼はあるアイテムを身に着けていて「これは岩泉町でもらった」と周りに話すのだが、ほとんどが福岡や九州北部の市町から駆けつけた他のボランティアたちの反応は、薄かった。その様子を見ていて、あ~西日本の人ははるか北の岩手県にある町なんて知らない、ピンとこないのだと思った。

「三人家族2017」(福島県立小名浜高校演劇部)、調布せんがわ劇場で観た。

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受付近くに演劇にはあまり関心がなさそうなスーツ姿の男たちがいるなと思ったら、吉野復興大臣とそのお付きの人たちだった。大臣はぼくの二列前に座り、最後まできちんと観ていた(途中で抜けるんだろうなぁ、と思っていた)。

ストーリーは、いわきにある寺の跡取り兄弟(男子高校生)をめぐるもの。
父親である住職は震災時に避難をせず、沢山の犠牲者のために卒塔婆を書き続け弔うなどの無理によって早世。檀家は兄弟に寺を継いでほしいと迫る。東京の大学進学をめざす彼女と共に上京を考えていた長男だが、最終的には残って継ぐ決意をする。
彼女の父親は福島第一原発で働く東電社員で、震災後に母親と彼女だけはいわきに家を移した。そこで周りから露骨な嫌がらせを受けたことが語られ、「私たちは加害者家族だから」と吐き出す。

被災した県内の分断。被害者が別の被害者を責める──。わかるのだが、6年以上たった今もここまで先鋭だろうか? これらの問題は沈静化すると共に、より深いところや別のところで問題が起こっているのが現在ではないか? ここまで図式的であるべきだろうか? といった疑問も持った。
去年、福島県高校演劇コンクールで最優秀賞になった「よろずやマリー」(大沼学校)を観た際も、かなり感動はしたのだが、同じように感じたことを思い出す。

芝居は、寺を継ぐことを決意した長男が、3月11日に亡くなった人たちのためにも…とお経を上げるシーンで終わる。うーん、これまでの物語はここに向かう前段だったのだろうか? ちょっと道徳劇っぽさが強いな、とも感じた。

芝居が終わった後、小名浜高校の生徒による福島の現状を伝えるプレゼンが10分。その後マイクを渡された吉野復興相は、こんな話をした。

「現場は努力している。しかし東電経営層や国の責任は追求すべき」
「双葉郡で猪が暴れる番組をやったら会津のホテルがキャンセルされたという。風評被害の払拭に全力を尽くしていく」

直截素朴な人だなぁ。

「三人家族2017」は、福島発とはいえ図式化されてすぎているのでは、実感に根差しているのだろうか(一番知りたいのはこの点かもしれない)、という疑念を少し持った。

ただ、岩泉を知らない北九州の人たちの例のように、福島から離れた地域であればあるほど初期の原発事故のイメージのみ残り、現在の情報は頭に入っていない人が多いだろう。双葉郡の荒廃を報じて会津のホテルがキャンセルされるなど、ほとんど何もわかっていない人たちが確実にいるということだろう。

その意味で、こういう演劇も力を持つべきなのかなとも思える。

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「Are you wearing the clothes?」(リクウズルーム×努力クラブ こまばアゴラ劇場)を観た

Posted on 2017年8月9日. Filed under: 演劇 |

2017年8月8日(火)、「Are you wearing the clothes?」(リクウズルーム×努力クラブ)を観た。こまばアゴラ劇場で。

100分超の芝居だったが、2人の作家が分担して脚本を書いたためなのか(登場人物の台詞をそれぞれが書き分けたんだとか=Twitter情報)異質の世界がぶつかり合うような味わいがあり、体感的に2.5本分ぐらいの満腹感があった。

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途中、去年見た「愛のおわり」(パスカル・ランベール)ですごい演技をしていた女優(兵藤公美)が出てきた。彼女を見ているだけでも飽きなかったのだが、(恐らく)時流を反映した物語で、なかなか惹きつけられた。

(以下、記憶の怪しいあらすじ。)
主人公、シニカルな若い女。
ニセ柳ニセ子という黒柳徹子のパロディーのような女が登場、対談がはじま…らない。
ニセ子には忠実な召使がいるが、殺してしまう。
彼女のメイク役の女によって、ニセ子の正体は蛇だと明かされる。
正体がバレたニセ子は「呪」と大書かれた紙を世界中に貼りはじめ、人々をそのためのツアーに動員していく。

一方、合理化する世界に抗する“面倒臭いもの”として、多分にカリカチュアされたオーガニックおばさんが現れる。私はオーガニックコットンしか着ない、そりゃあオーガニックだねぇ(オーガニック落語)などのくだりは観客の爆笑を誘っていた。

ニセ子のツアーは蔓延していき、オーガニックおばさんたちも取り込まれる(正確にはおばさんがニセ子=蛇をかじることで一派になる、だったか)。

最初はそれに抵抗していた(主人公を愛する)男も、孤独になりたくないため付和雷同していく。その過程でニセ子が煽る「呪」は時代がかったものなどでなく、カジュアルな遊びだということが周りからの男への嘲笑によって示される(今のソーシャルの、誰も深刻な結果など考えずカジュアルに人を叩くこと、とその重畳的効果への風刺だろうなぁ、とか)。

ツアー参加者たちが突然“ふわふわした感じ”に包まれ、高揚の中で世界は消滅する(BGM: SEKAI NO OWARI – Dragon Night)。
冒頭のシニカルな少女がそれを高みから眺め、「茶番だ」とつぶやく。

世界は消えたはずだが、少女の生活は再開される。なぜか今はいないはずの母親や弟、日常が戻ってくる。
少女を愛する男が公園で待っている。待っている間さまざまな人間が現れ、自分の望みだけを表したような言葉で男に絡み、そして去っていく(この不条理なシーンはとてもよかった)。

公園に現れた少女は、男が言葉を発するとその欺瞞を次々と突いていく。そして去る。
最後、諦めきれない男だけが残る(じわじわと純愛がいぶり出される、と感じた)。

椅子をいくつか置いただけでそこが対話室だと感じられるとか、日常生活ではまず許されないシュールな言葉を、発話されるそばから頭の中に入れていくうち脳みそが覚醒してくるとか(そういうのがぼくにとっては芝居を観に行きたくなるカタルシスなのだが)、そういういい感じがあった(陳腐な感想だなぁ…)。

加えて、爆笑シーンの数々やコール&レスポンスで観客をあたためつつ、(Twitterで誰かが書いていたことを少しパクると)こちらは全てを観測できないが、確かに存在する世界のルール(それも複線あって交わったり離れたりしている)を断片的に覗き見ている、と思わせられるような謎かけ的面白さが提示されていた。

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「預言者Q太郎の一生」(ヤリナゲ)を観た

Posted on 2017年7月21日. Filed under: 演劇 |

「預言者Q太郎の一生」(ヤリナゲ)をこまばアゴラ劇場で観た。

満席で、追加席も設けていた様子。客席はなかなかにぎやかで、開演に向けあったまっている感じがした。

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日本一汚いといわれる手賀沼の“湾岸”で展開するイエス・キリストの物語。

預言者の誕生から死までが、その墓前で母が娘に手記を手渡した中身に沿って芝居が展開していく、というかたちで語られていく。
テンポのよいコントをやる三賢人も登場するなどゲラゲラ笑わせるテンションを保ちつつ、コミュニケーションや事物の本質にサラッと触れる台詞が時々差し込まれたりする(割合は10%ぐらい)。

観ているうち、これは預言者でなく処女懐胎したマリア(みちる)の物語なのだと思った。Q太郎へのいじめ加担、家族の新興宗教狂い、アイドルデビュー、リベンジポルノ、北との戦争、慰安婦への転身──など、流転と汚濁の中での。

このままコミカルでテンポのよい変な話として終わるのかな、それでもまぁ満足度はなかなか高いな、と思っていた頃、転回が──仮に演劇的感動と名づけておくが、起こった。

みちるは、気乗りしないままやっていたアイドルを元彼氏のリベンジポルノによって引退せざるを得なくなる。北との戦争が突然始まり、慰安婦として(劇中ではそういう呼称ではなかったが)さまざまな国の男を相手にすることになる。そして突然彼ら一人ひとりも人間なのだと理解し、そこから自分とQ太郎との関係は本質的なものであったかどうかを振り返る。Q太郎が登場、エコーを効かせたマイクで調子っぱずれな「世界に一つだけの花」を歌う、というシーンだ。

みちるは(男女の同衾を暗喩すると思われる)シーツをかぶり観客に背を向けて立っているのだが、それが宗教画のマリアのようなイメージで、ハッとしてしまったのだ。

みちるを演じていたのは永井久喜(ひさき、と読むらしい)さんという女優さん。動きも声も微妙に引っかかるのだが、それが印象に残った。この人が出る芝居をまた観てみたい。

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「すがれる」(鳥公園)を観た

Posted on 2017年7月7日. Filed under: 演劇 |

「すがれる」(鳥公園)を観た。こまばアゴラ劇場で。

関係ないけど、駒場東大前から劇場に行く途中にあるパン屋さんは雰囲気がよい。三角形の蒸しパンとドラえもん顔のパンを買ったが、後で見るとドラえもんパンの裏には「アンパンマンパン」というシールが貼ってあった。

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話を戻して。

鳥公園は、前回観た「ヨブ呼んでるよ」が妙に面白かったので、洒落たタイポグラフィーで台詞を箴言的にあしらったチラシを見た段階で期待が高まっていた。で、本編もよかった。

老作家の生涯を描いているのだが、主人公を女と男の役者が演じ継いだり、禿頭のまま子ども時代を演じたり、ズレがある。

度々描かれるおしっこ、小道具やシーン。排泄の随意・不随意を通じて、人間の感情や行動がままならないものであることを仄めかしているのだろうか。

武井翔子という、高畑充希のケンカの強いお姉さん的女優の存在感、特に口吻が前回と同じくいい。“あたい”と名乗る金魚を演じたシーンでは、不思議なキュートさを醸し出していた。

アホっぽい感想だが、同じように不条理な状況を描く演劇であっても、語り口によって退屈、苛立ち、愛着など浮かんでくる思いは色々なんだなぁと感じた。鳥公園のやり方は気に入っている。入っていくことができる。

話を思い返してひとつ気になった。老作家が担当編集者に、金魚を燃やしながら飛ばして写真を撮り小説の表紙にしてくれ、と頼んだ金魚と、老作家の前で小娘のように振る舞っていた金魚は同一なのだろうか。
どんな意味があるんだろう。

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