演劇

感想:高校演劇サミット2018 盛岡市立高校, 都立世田谷総合高校, 精華高校

Posted on 2018年12月31日. Filed under: 演劇 | タグ: |

高校生がやること、たとえば高校スポーツは大人≒プロを頂点とすれば七~八合目、つまり途上といえるだろう。しかし「高校演劇」はその相似形ではなく、プロの劇団とは別の山頂をめざしているような気がするんだ。それほど高校演劇はすごいと思う。

2018-12-29 12.27.33

高校演劇サミット、2018年12月29日土曜日(3日間の最終日)。こまばアゴラ劇場で岩手、東京、大阪、三校の芝居を観た。

(さらに…)

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「ただいま」(劇団こふく劇場)がすごかった

Posted on 2018年12月14日. Filed under: 演劇 |

「ただいま」(劇団こふく劇場)を観た。こまばアゴラ劇場、2018年12月13日木曜日。

期待は高くなかった。しかし観て驚いた。

ただいま

宮崎県からはるばるやってきた劇団であること、「ただいま」というぬるいタイトル、台詞は宮崎弁で話されると開演前アナウンスがあったこと──などから、あぁそういうのね、とナメていたのだ。

思えば、古民家を擬したような民芸調のセットも油断の原因だったが、ちゃぶ台がシンメトリーに二つ並んでいるという変な配置であることに疑問を持つべきだった。

役者は基本的に正面を向く。場面転換の際、能のすり足のように入れ替わる。
ト書きが、後部に控えた役者たちによって、能の囃子のような体(てい)で、独特の節のついたユニゾンのような調子で朗唱される。

このように構成にはまった様式的な立ち居振る舞いの中、“妻の失踪”“お見合い”“父と娘”といった掌(たなごごろ)サイズの物語がパラレルに演じられていく。役者たちの演技がとても強く、ドラマがずんずん畳みかけてくる。会場には涙を流す人もいた。

ト書きはときに人物たちの内面・妄想を描写するのだが、その広がり具合が「意識の流れ」のようだなと思った。

太平洋戦争の死者が幻影として現れたり、福島第一原発の被害(と思われるもの)が言及されたり。生と死の移ろいが匂わされてもいた。

“演劇でなければ立ち上がってこない何か”がみっちり詰まってた。
(しかし演劇でなければ…って何だろう。腑分けしていっても力が及ばない気がする。)

宮崎県の人口2万人の市の、町営劇場を拠点とする劇団だという(たとえば東京都中央区の人口は14万人だが、こんなに質の高い劇団があるのか? ぼくは知らない)。そんな劇団でありながら、今年から来年にかけて札幌から沖縄まで10都市の公演を行っている。

今年のベスト3に数えたい。すごかった。

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うさぎストライプ「空想科学II」を観た

Posted on 2018年11月30日. Filed under: 演劇 |

さっきTwitterを眺めてて思ったんだけど、少しだけリアリズムの乏しい演劇を評して「不条理」っていう思考停止ワード使うのやめてくれよ、と。

うさぎストライプ『空想科学II』を観た。こまばアゴラ劇場で。

この劇団は前の(「ゴールデンバット」)もよかったので、期待していた。
で、やっぱり面白かった!

2018-11-29 18.58.39-5

冒頭、女とベッドを共にしている男の頭に斧がぶっ刺さって死んでる(しかし普通に振る舞う)という強烈なシーンから、話にぐいぐい引っ張り込まれていく。うまい。

2人の物語とパラレルに展開される誰かの葬式らしきシーン、保険の営業マン2人…と話が積み重なっていく。そして眠りから覚めることができない男、というループ物的横軸も。
時制(いつの出来事か)と主観(誰の物語か)が混濁しているんだろう、ぐらいは観ていて想像できる。で、やがてそれらが糾合されていく過程は叙述トリック的な味わいがあった。

小劇場芝居の制約にして強みといえるだろうが、大きなダブルベッドがドーンと鎮座する一シチュエーションの舞台に話がどんどんばら撒かれていき、そして最後にはちゃんと畳まれた。

今年観た芝居のベスト3に入るぐらいの良作。客席は常にあったまってる(好意的な)感じで、終劇後の拍手もかなり大きかった。

後半の「〇〇君てさ、本当にいたの?」にはゾッとした。仮に〇〇がいなかったらどんな話になるのか。 あと、〇〇を持って彷徨ってた彼の主観では無限牢獄だったはずだよな。
時制と語り手のこんがらがりを解きほぐしつつ、もう一度観たいかも(ついでに、物語構造を把握したら次は登場人物の思いをよく感じてみたいかも)。

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エキシビジション上映 / 代役 / 一回性の演劇 

Posted on 2018年11月13日. Filed under: 演劇 |

(※以下の文章は、事実に推測に加えたもの。)

演劇の持つ「一回性」。その強い誘引力は忘れられない体験をもたらすことがある。

強い演劇部を持つ高校があった。A高校としよう。

コンクールに出れば地区予選を経て県大会に進むのは当たり前で、県でも優勝してブロック大会に何度も進んでいる、つまり常勝校だ。

が、ある年そのA高校の演劇部を大量の部員が脱退してしまう。部員がたった1人だけの“1人演劇部”になってしまった。
しかしなんとその年も、優れた脚本・演出・そして1人部員の演技によってA高校は県大会に進出したのだ。

が、大会当日、さらに意外なことが起こった。
その1人部員は、「体調不良」を理由に当日の出演を辞退した。
A高校の演目そのものは中止にはならず、“エキシビション上演”と称して、その学校の中等部の男子生徒が代役として演じることとなった。そして──恐らく急なことで練習がまったく足りていないからだろう──中学生が台本を手にしたまま演じる“朗読劇”だ、と事前に説明されることになったのだ。

演目は、高校演劇ではよく見かける型だが自己言及性の強いもので、つまり名門演劇部に憧れてその高校に入った彼が、何らかのトラブルで自分以外の全部員が部を辞めてしまうという急変で孤独感を味わう中で、顧問の先生に与えられたテーマ──ドストエフスキーの「地下室の手記」を通じて彼の生涯に迫ること──を深めていき、1人演劇部としてやっていく活力を再び得る、というものだった。

演じたのは彼自身ではなく代役の中等部の生徒であり、ところどころつっかえながら台本を読み立ち回る、というスタイルだったのだが。

今日は県大会の2日目で合計5つの高校演劇部が演じたが、ぼくが最も目を見開かされたのはもちろん、この1人演劇部の強いその場性/即興性/ゲリラ性を含んだエキシビション上演だった。

クッソ面白かった…。

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「革命日記」(こまばアゴラ演劇学校 “無隣館” Bチーム)を観た

Posted on 2018年4月18日. Filed under: 演劇 | タグ: |

『革命日記』(こまばアゴラ演劇学校 無隣館 Bチーム)を観た。

2018-04-17 21.29.00

平田オリザ脚本の芝居をこれほど面白いと思ったのは、たぶん初めてだと思う。

没入感のある芝居だった。
役者たちの表情と所作と言葉が紡ぎ出すものの意味で舞台が終始みっちりと満たされていて、観客席からその中に首を突っ込み、ずっとそれに夢中になっていた…と後で気づいた。(余談だけど、この第四の壁に肉薄し演者の圧を感じるスリル、小劇場で観るのはやっぱりいいなぁ。)

一場もので、取りとめのない会話で脱中心化していく構図は変わらずだ。が、そこに現れるのは生活対革命、町内会対テロ、子育て対運動といったモチーフだ。その緊迫感にずっと浸りきることができた。

彼が書く会話劇は常に全員が揃うことがない。誰かが退出し、また誰かが入ってくる中で断片的に起こる会話が、群盲象を撫でるように話を少しずつ進めていく。

今回はこの全員がいない、時間通りに来ない、招かれざる客が来るという集積が、生活という(革命にとっての)不純物の侵入として機能し効果を生んでいたと思う。

どの役者もよかったが、色んな人物類型が出尽くした後の副町内会長(女性)、いるいる感が凄く、個人的には一等賞をあげたい。

終盤登場した「辺野古のマングース」の正体(あるいはそのあだ名の由来)が聞けなかったのが残念だ。

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「きれいごと、なきごと、ねごと、」(青年団リンク キュイ)を観た

Posted on 2018年4月11日. Filed under: 演劇 |

「きれいごと、なきごと、ねごと、」を観た。

キュイは前に観たものが面白かった記憶があり、期待して行ったが…ダメだった。

2018-04-10 19.00.28

n人でn人を演じる仕組みも、男優たちが三姉妹を演るのも、総じて空回りだと感じた。終盤の言葉のプロレスは面白かった。劇中、これはエンディングに相応しいかという現在地を問う台詞が何度かありハッとしたが、この芝居を観る前と後の差異は何だろう…と黙考してしまった。

モヤモヤし、帰ってから裸足ランした(これは通常営業)。
モヤモヤは朝までまだ続いていた。考え進めたことを綴っておく。

辛い境遇にあるらしい三姉妹が主人公で、ネグレクト、いじめ、ストーキングなど暗い話題が多かった。

以下のように演出されていた。

まず三姉妹は男優が、兄や姉妹の恋人などは女優が演じている。
n人をn人が演じる。役のウィッグを奪ったり投げつけ合ったりすることで役が転移していく。つまり群れが語るモノローグのように見える。
ストーカーや飼い犬など舞台に立たない存在は、台詞が背景に投射され、また機械のように抑揚が壊れた音声で再生される。

これらは効果的だったか? そうとは思えなかった。台詞は聞き取りにくかったし、絶叫など激しい感情の発露が多くて話に入っていけなかった。

わかりやすくせよと言っているのではない。わかりやすさには、いつでも誰でも同じ結論に達してしまう罠があるだろう。ただやはりその響かせ方次第で、新たな深淵をのぞき込むことができるか、うんざりしてしまうかが分かれてしまう。

ちなみに両隣の男たちは途中から寝ていた。その割にはアフタートークの時間も残ろうとしていたから関係者なのかもしれない。しかしこの程度のつまらなさに耐えられないなら芝居を観に来るなよ、と思ってしまった。

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ミナモザ「Ten Commandments」を観た

Posted on 2018年3月28日. Filed under: 演劇 |

ミナモザ「Ten Commandments」を、駒場東大前で観た。

2018-03-27 20.56.19

災いの後を描いたアンビエントな芝居であり、登場人物が何かを患っているという点で、チェルフィッシュの「部屋に流れる時間の旅」と似ているなと思った。

しかしこの芝居、観ていると観客席からガサガサもぞもぞ動く音が多い。何か“圧”が足りない、場の支配力が弱いのだ。どうも集中できないと他の観客も感じていたのか。

筋はこうだ。
あの地震と事故から7年、劇の脚本が書けず発話もできなくなり、つまり言葉を失った女を軸に、誰かに宛てた手紙というスタイルで事故の根源である原子力の来歴が散文的に語られていく。「みえない雲」、レオ・シラード、アインシュタインなど。

震災と事故の後、女が言葉を失ったいきさつは“私が演劇を書かなくても洗濯物は濡れない”に象徴される。仮構としての言葉の弱さだ。しかし終盤、原爆投下を進めたのもまた言葉だ、と語られる。女は夫との会話を取り戻す。

2018-03-27 18.38.46

震災と原発事故の後、社会は変わった。
変わっていない人もいるが、変わった人と変わっていない人に分断されたという意味でも社会は確実に変わったのだ。

社会を映す小説や音楽や映画や演劇も変わっただろう。変わったとは、震災と原発事故をそのまま描くことではない。深層(深いところで変容する何か)を切り取ることだと思う。
演劇ができる表現は何だろう。個人の中で変わったものをモノローグの積み重ねで描いたこの作品は、観終わってみればなかなか共感が湧いてくるものだった。

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