演劇

「革命日記」(こまばアゴラ演劇学校 “無隣館” Bチーム)を観た

Posted on 2018年4月18日. Filed under: 演劇 | タグ: |

『革命日記』(こまばアゴラ演劇学校 無隣館 Bチーム)を観た。

2018-04-17 21.29.00

平田オリザ脚本の芝居をこれほど面白いと思ったのは、たぶん初めてだと思う。

没入感のある芝居だった。
役者たちの表情と所作と言葉が紡ぎ出すものの意味で舞台が終始みっちりと満たされていて、観客席からその中に首を突っ込み、ずっとそれに夢中になっていた…と後で気づいた。(余談だけど、この第四の壁に肉薄し演者の圧を感じるスリル、小劇場で観るのはやっぱりいいなぁ。)

一場もので、取りとめのない会話で脱中心化していく構図は変わらずだ。が、そこに現れるのは生活対革命、町内会対テロ、子育て対運動といったモチーフだ。その緊迫感にずっと浸りきることができた。

彼が書く会話劇は常に全員が揃うことがない。誰かが退出し、また誰かが入ってくる中で断片的に起こる会話が、群盲象を撫でるように話を少しずつ進めていく。

今回はこの全員がいない、時間通りに来ない、招かれざる客が来るという集積が、生活という(革命にとっての)不純物の侵入として機能し効果を生んでいたと思う。

どの役者もよかったが、色んな人物類型が出尽くした後の副町内会長(女性)、いるいる感が凄く、個人的には一等賞をあげたい。

終盤登場した「辺野古のマングース」の正体(あるいはそのあだ名の由来)が聞けなかったのが残念だ。

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「きれいごと、なきごと、ねごと、」(青年団リンク キュイ)を観た

Posted on 2018年4月11日. Filed under: 演劇 |

「きれいごと、なきごと、ねごと、」を観た。

キュイは前に観たものが面白かった記憶があり、期待して行ったが…ダメだった。

2018-04-10 19.00.28

n人でn人を演じる仕組みも、男優たちが三姉妹を演るのも、総じて空回りだと感じた。終盤の言葉のプロレスは面白かった。劇中、これはエンディングに相応しいかという現在地を問う台詞が何度かありハッとしたが、この芝居を観る前と後の差異は何だろう…と黙考してしまった。

モヤモヤし、帰ってから裸足ランした(これは通常営業)。
モヤモヤは朝までまだ続いていた。考え進めたことを綴っておく。

辛い境遇にあるらしい三姉妹が主人公で、ネグレクト、いじめ、ストーキングなど暗い話題が多かった。

以下のように演出されていた。

まず三姉妹は男優が、兄や姉妹の恋人などは女優が演じている。
n人をn人が演じる。役のウィッグを奪ったり投げつけ合ったりすることで役が転移していく。つまり群れが語るモノローグのように見える。
ストーカーや飼い犬など舞台に立たない存在は、台詞が背景に投射され、また機械のように抑揚が壊れた音声で再生される。

これらは効果的だったか? そうとは思えなかった。台詞は聞き取りにくかったし、絶叫など激しい感情の発露が多くて話に入っていけなかった。

わかりやすくせよと言っているのではない。わかりやすさには、いつでも誰でも同じ結論に達してしまう罠があるだろう。ただやはりその響かせ方次第で、新たな深淵をのぞき込むことができるか、うんざりしてしまうかが分かれてしまう。

ちなみに両隣の男たちは途中から寝ていた。その割にはアフタートークの時間も残ろうとしていたから関係者なのかもしれない。しかしこの程度のつまらなさに耐えられないなら芝居を観に来るなよ、と思ってしまった。

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ミナモザ「Ten Commandments」を観た

Posted on 2018年3月28日. Filed under: 演劇 |

ミナモザ「Ten Commandments」を、駒場東大前で観た。

2018-03-27 20.56.19

災いの後を描いたアンビエントな芝居であり、登場人物が何かを患っているという点で、チェルフィッシュの「部屋に流れる時間の旅」と似ているなと思った。

しかしこの芝居、観ていると観客席からガサガサもぞもぞ動く音が多い。何か“圧”が足りない、場の支配力が弱いのだ。どうも集中できないと他の観客も感じていたのか。

筋はこうだ。
あの地震と事故から7年、劇の脚本が書けず発話もできなくなり、つまり言葉を失った女を軸に、誰かに宛てた手紙というスタイルで事故の根源である原子力の来歴が散文的に語られていく。「みえない雲」、レオ・シラード、アインシュタインなど。

震災と事故の後、女が言葉を失ったいきさつは“私が演劇を書かなくても洗濯物は濡れない”に象徴される。仮構としての言葉の弱さだ。しかし終盤、原爆投下を進めたのもまた言葉だ、と語られる。女は夫との会話を取り戻す。

2018-03-27 18.38.46

震災と原発事故の後、社会は変わった。
変わっていない人もいるが、変わった人と変わっていない人に分断されたという意味でも社会は確実に変わったのだ。

社会を映す小説や音楽や映画や演劇も変わっただろう。変わったとは、震災と原発事故をそのまま描くことではない。深層(深いところで変容する何か)を切り取ることだと思う。
演劇ができる表現は何だろう。個人の中で変わったものをモノローグの積み重ねで描いたこの作品は、観終わってみればなかなか共感が湧いてくるものだった。

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「そして僕は途方に暮れる」(シアターコクーン)を観た

Posted on 2018年3月22日. Filed under: 演劇 |

2018年3月20日(火)、「そして僕は途方に暮れる」をシアターコクーンで観た。

2018-03-20 16.26.26

最初に結論。三浦大輔はやっぱりすげえ。観に行ってよかった。

ちょっと期待していた斬新な筋はなかった。映画「何者」でも観たブロック状の部屋割りセットや、スマホやSNSといった小道具、過去作品のリフレインと思える挿話などもあり、大きな冒険はせずにまとめた感じ。

しかし、ああこの台詞を聞くために来た、と感じる瞬間があった。

主演が藤ヶ谷太輔(ジャニーズのKis-My-Ft2というグループのメンバーらしい)と前田敦子。チケットは発売即完売。劇場の受付にずらーっと並んでいたのは99%が女性だった。

2018-03-20 12.58.45

主人公は大学を出て彼女の家でだらだらと暮らしているフリーター、つまりダメ男。

三浦大輔の芝居がすごいなと思うのは、“ダメで曖昧な男”の姿を、断罪することなく、誇張して嘲笑うようなこともなく、ただ釣ってきた魚のように描いてみせるところ。あるある過ぎない、身につまされもしない、ただ薄いスープのように主人公や周りの人物の姿が描かれ、気がつくとこちらの心に入っている。

こういう不思議な味わいを他の作家の作品で、映画でも小説でも漫画でも経験したことがない。彼の独壇場じゃないかと思う。

二幕物、2時間40分となかなか長い芝居だが、主人公はクライマックスで、

“なんか、すいません”
“なんかでしかないんですけど”

という台詞を吐く。

いやなことから延々逃げて、なかったことにしたくて、自分の中で何がしたいのかわからないと呟き、そして反省そのものも曖昧で“なんかでしかないんですけど”と、恋人、親友、姉、母の前で謝る。

このシーンで、これが真実の瞬間だ、あっこれを観に来たんだ! と思った。

もう一つ。これをアイドル(といっても藤ヶ谷は30歳らしいが)芝居として観た場合、以下の点が優れていた。

  1. 主人公のダメさが、それを演じるアイドルに対する女性観客の庇護欲(流行り言葉で言うなら“バブみ”か?)を催させるものとして作用している。

  2. 三浦大輔は安易なカタルシスを与えない。鼻白むようなラストに観客を導くことが多い。この芝居でも、主人公は最後に彼女から自分も浮気していた、と告げられることになる。過去作品にそういうのがあったので、あーやっぱりか…と苦笑した。が、次の瞬間驚いたのは、会場のそこかしこで静かな悲鳴が漏れたことだ(聞いたことのないような声だった)。女性観客たちは主人公に思いっきり感情移入し、この話を悲劇と受け取ったんだろうなぁ、と思った。

ところで、観終わった帰り道にこんな感想Tweetをした。

するとRTが100越え、Likeが200越えになった。主演男優の名前もなく、彼の演技への言及もないTweetなのに。なんというか、ファンの人たちの共感圏のつくり方というのはこういうものか…と感嘆してしまった。

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「地上10センチ」(ガレキの太鼓)を観た

Posted on 2018年3月13日. Filed under: 演劇 |

ガレキの太鼓「地上10センチ」を観た。2018年3月13日(火)、こまばアゴラ劇場で。

「地上10センチ」 ガレキの太鼓

若くして余命5年と宣告された男が、形骸化した葬式はイヤだ、人生の最後ぐらい自分が思い描いたかたちで主役になりたい、と妻や友人たちを巻き込んでいくという話。

中心に舞台があり、葬式のためのブレストやリハーサルに観客も巻きまれていく感覚。この演出はよかった。

夫婦の関係は冷えているのだが、妻は夫の思いに応えようと奮闘する(後から考えると、この設定はあまり活きなかった気がする)。

葬式のリハーサルがクライマックスなのだが、その内容が破天荒な方にもショボい側にも振り切れておらず、つまり爆笑も失笑もあまり起こっていなかったのが残念な感じだった。思い出の品でドミノ倒しはよかったが。

印象に残ったフレーズが2つ。
普通の葬式は一周回ってやっぱりいい。
死を考えることはやっぱり生きること。

村井まどかさんという、なぜか記憶に残る女優が出ていたので安心して最後まで観られた。

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「1999」(いわき総合高等学校)を観た

Posted on 2018年2月28日. Filed under: 福島, 東日本大震災, 東京電力福島第一原発事故, 演劇 |

「1999」、2018年2月25日(日)、こまばアゴラ劇場で観た。

「1999」 いわき総合高等学校

いわき総合高等学校は福島県で唯一演劇の授業があるとか。

最初ショボい(褒め言葉)恐怖の大王に扮したJKたち10人が登場し、ヘボい恐怖自慢に何度も失笑を誘われる。どんな学芸会が始まるんだ…と思ったが、それは世紀末後の世代である彼女たちの平凡で愛すべき喜怒哀楽(震災の記憶も含む)への巧みなイントロダクションだった、と後でわかってくる。

この展開の中で、小学生だった頃の震災の記憶も“嘘を言うつもりで話せば本当だったことも嘘になるから”などと語られるのは、対位的な効果もあってとてもあざとい。しかしそれも今年高校3年生の彼女たちの日常だったのだ。

全体にグダグダ感を出しつつ、最後のマイクを奪い合う乱舞などはどれだけ練習したんだ…! と思うほど高レベル。何よりキラキラが横溢し、眩しすぎた。

楽しかった!

卒業後は就職し演劇をやるのはこれで最後になる子もいるというが、ここまで豊かな表現を身につけた彼女たちに幸あれ! と言いたい。

あ、出演者たちの寄せ書きがあるパンフレットもよかったな。

2018-03-15 13.55.12

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「ハイサイせば」(渡辺源四郎商店)を観た

Posted on 2018年1月9日. Filed under: 演劇 |

2018年1月8日祝日、「ハイサイせば」、渡辺源四郎商店、こまばアゴラ劇場で観た。
(あ、新年一発めの観劇だ。)

2018-01-08 10.35.17

第二次大戦末期、軍の暗号通信が解読されるのを嫌い、薩摩弁による電話での伝達が行われたが(これは事実あったことらしい)、さらに難解にするため、比較方言学の教授の助言を得て青森・津軽弁と沖縄・琉球弁の話者が海軍省に集められ、実証実験が行われる──というストーリー。

スパゲッティーのようにのたくった喋り方でまったく意味がわからない琉球弁(誇張はしているのだろうが、浦添の言葉らしい)と、「わ」「け」など極端に短い津軽弁のかけ合いで観客の爆笑を誘いながら、話は徐々にシリアスな流れになっていく。

方言を話す者を「田舎者」「土人」「朝鮮人」などと馬鹿にする一方で、軍のためにその話者を探し出し重用するというアイロニー。

沖縄出身の牧師はアカとして特高の厳しい取り調べを受ける身であり、津軽から来た掃除婦は夫が出征中。手塩にかけて育てたりんごの木は米への転作命令で全て伐採したと語られるなど、反戦、反中央的なメッセージが強い。

題名は「ハイサイ(琉球弁でこんにちは)」、「せば(津軽弁でさようなら)」を組み合わせたもの。北と南の被抑圧者としてひととき席を共にした者たちが、別れるシーンで交わす言葉として効果的に使われていた。

印象的だったこと。

琉球弁を話すことを罰するため「方言札」が使われたという挿話では、それなりの年齢の観客からへぇ~という声が上がり、ちょっと驚いた(こういう生の反応と共に観られるのは、小劇場のよさか)。

また観終わった後、駅で電車を待っているとこんな会話が聞こえてきた。
(こまばアゴラは外の音が結構聞こえることがあるのだが、)終盤、たまたま外からヘリの飛ぶ音が聞こえてきた。そのことがテーマと重なり合い、沖縄の今も続いている(ヘリからの落下物や人家近くの不時着などの)状況を思い出した、と。

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