映画

「標的の島 風かたか」感想:知ってしまったら他人事だと感じられなくなる

Posted on 2018年1月14日. Filed under: 映画 | タグ: , |

映画「標的の島 風かたか」の感想、粗削りだが忘れないうちにまとめておく。

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「るるぶ 沖縄ドライブ ’18」というムックを読んだ。米軍基地のことも沖縄戦のことも1ページもスペースが割かれていなかった。マップをよく見ても、渦中の辺野古には「辺野古崎」という記述があるだけ、高江のある場所は「国頭村」という記述だけ。

観光に行きたいと思う人のためのムックだ。だから当たり前、だろうか?
ダークツーリズムという概念も少しずつ浸透してきた。観光ドライブついでに戦跡に行ってみたい、とかニュースで見る辺野古や高江が本当はどういう場所なのか見てみたい、という人もいるのでは。そういう情報を一切排除した観光本は、まるでパラレルワールドの別の時空の本のようじゃないか、と思った。

楽しいことだけを見てワクワクすることだけを追って、それで世の中がよい方向へ向かうならいい。でもそんなことはない。
一方、世の中の暗い面を見て問題をあげつらうことには社会性がある。しかしその態度が強すぎれば多くの人の共感を得ることはできない。

金曜日、「標的の島 風かたか」を観ながら書いたメモから、感じたことをまとめておく。

「知ってしまったら他人事じゃない」。辺野古の座り込みに参加した若い女性の言葉だ。
この映画は、沖縄の外の人間にとって他人事である問題をぐっと自分に引き寄せてしまうような、そんな状況がいくつも描かれている。

「風(かじ)かたか」は、沖縄の言葉で風よけ、防御壁という意味だという。
映画では、風かたかが二つの意味で使われているようだった。

一つは、米軍属の男に殺された女性を追悼する集会で、“私たちはまたも弱い者を守る風よけになることができなかった”という痛恨の表現の中で。
もう一つは、沖縄本島から先島を結ぶラインが、米日の対中国包囲戦略(エア・シーバトル戦略)の中で防御壁として期待される=再び戦場になる恐れがある、という意味において。

ドキュメンタリー映画にはさまざまな手法があるが、三上智恵という監督は、人が語るときのエモーショナルな瞬間を引き出すのがとてもうまいと思う。

映画に登場する人々が語る事実の一つひとつに、強く心を揺さぶられる瞬間がいくつもあった。

ぼくがボランティアとして通っている南相馬・小高では、今も他府県ナンバーのパトカーを見かけることがある。復興のため応援に来ているのだ。
高江でヘリパッド建設を食い止めようと座り込む人たちを排除するため集められた警察車両の車のナンバーは、多摩、柏、品川、福岡、北九州など、沖縄以外のさまざまな県のものだった。

沖縄戦のとき、石垣島の島民はマラリアに罹りやすい山中に強制移住させられ、そのことで約3,600人もの人が亡くなった。お年寄りが幼くして亡くなった孫を背負って埋葬に行くなど、地獄のような状況だった。

石垣島の最高峰・於茂登岳の麓にある集落は、元々沖縄本島から開拓民として移住させられた。苦労して開拓したその集落に自衛隊のミサイル基地がつくられようとしている。

それなりに冷めた目で見ても、イデオロギーに傾いた映画ではない。
自衛隊ミサイル基地の問題では、住民説明会で賛成派が優勢であることなどを描いている。

TVドキュメンタリー「標的の村」は、時間が短く問題がほぼ高江と辺野古に絞られていたため、主張がとてもシャープだった。対してこの「標的の島」は、描く問題を先島や自衛隊にまで広げたことで、やや混沌とした印象だな…と思った。しかしそのことが、映画の終わり方により深みを与えることになったのではないか。

七尾旅人が歌う「兵士Aくんの歌」。これは近い将来生まれるであろう1人目の戦死自衛官のことを歌ったものだという。ラスト、この歌が座り込みに対峙する機動隊員や行進する自衛官の姿に重ね合わせられる。

このシーンを、あなたたちが守っているものが最初にあなたたち自身を殺すんだよ、という意趣返し的メッセージと取ることもできる。
しかしそうではなく、基地問題や、その根源にある国家間の緊張までを鳥瞰し、構図としての悲しさ、虚しさといったものを提示して見せたのではないか? と感じた。

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「海の産屋 雄勝法印神楽」を観た

Posted on 2018年1月4日. Filed under: 映画 | タグ: , |

祭りのように短期的な便益だけでは説明がつかないものを、人はやり継いでいる。
東日本大震災で、祭りが行われていた地域の復興は早かったといわれている。

芸能は、生まれたそのときは時代に寄り添っていたはずだが、やがて様式化していき普遍の部分だけが残る。

2018年1月2日、映画「海の産屋 雄勝法印神楽」をポレポレ東中野で観た。

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津波で壊滅的被害をうけた石巻・雄勝で、その翌年行われた神楽を描いたドキュメンタリー。

祭りによる復興という(よくある、といっていい)見立てを想像した。描き方は淡々としたもので、正直途中までは退屈も感じた。

しかし終盤、海神(わだつみ)の娘・豊玉姫の身ごもりを描く神楽に、震災がなければ存在しなかったある象徴的存在が登場する。

あの災禍をも取り込もうとするしなやかさに、あっと声を出しそうになるぐらい驚いた。

芸能とは、普遍性と今日性、両方を含んでいるのでないか。だからこそ、ぼくら一人ひとりはその意義を説明し尽くせないものだが、集団的意志のようなものが人に受け継げと示唆しているのではないか。

観た後、題名の「産屋(うぶや)」は何層もの意味を持つのだとわかった。こういう描き方もあるんだなぁ。

東北、復興、民俗芸能などに興味ある人は観てほしい。

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映画「サラの鍵」:フランス・ヴィシー政権下で起こったユダヤ人を強制連行事件

Posted on 2017年4月19日. Filed under: 映画 |

DVDで映画「サラの鍵」を観た。

第二次大戦中、ドイツに敗北したフランスにできたヴィシー政権下で起こったユダヤ人の大量検挙事件「ヴェルディヴ(競輪場)事件」をモチーフにしたもの。

パリのユダヤ人街マレ地区では1万人ものユダヤ人が検挙され、競輪場に非人間的な状態で数日間監禁された後、アウシュビッツなどに送られた。もちろん大半の人が生還できなかった。
(さらに…)

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「ヴィジット」(M・ナイト・シャマラン)感想:大作ではないが復調の兆しか

Posted on 2017年1月26日. Filed under: 映画 | タグ: |

映画「ヴィジット(M・ナイト・シャマラン監督)」、ブルーレイで観た。

才能というのは量的に計れるものではないと思うが、よくいわれる“枯れる”は、本当にあるんだろうか。
彼を「シックス・センス」の監督だと思っている人はとても多い。が、(今振り返ってみれば)黄金期は「アンブレイカブル」「サイン」「ヴィレッジ」だと思う。「エアベンダー」を撮ったときはもう終わりだ…と思ったが、この映画を観て、復調の兆しがあるかも、と感じた。

大作ではない。IMDbの評価も6.2/10だ。
音楽がジェームズ・ニュートン・ハワードじゃないのも一つ魅力を削ぎ落としているかも。

しかし彼はやはり巧いのだ。画面の「間」にも「無音」にもことごとく意味があるような、“映画的”な映画をつくれる監督だと思う。

あと、彼の底流にあるテーマは、“壊れ(かかっ)た家族の修復”なんだなぁと今回も改めて思った。

ディスクに収録されていたインタビューで彼はこんなことを語っていた。

「原点回帰」
「キャスティングは監督の仕事の8割」
「ぼくがバスケ選手なら、ストリートバスケに挑んだのが本作」

納得できる言葉だなぁ。

彼にはまだ期待できそうだ。まだ新作が控えているようだし。

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「裏切りの街」(監督:三浦大輔 主演:池松壮亮×寺島しのぶ)を観た

Posted on 2017年1月15日. Filed under: 映画 | タグ: |

映画「裏切りの街 」(監督:三浦大輔 主演:池松壮亮×寺島しのぶ)を観た。

去年12月に「何者」を観て監督に興味を抱き、DVDで「愛の渦」「ボーイズ・オン・ザ・ラン」を観てさらに興味が深まり、この新作(といっても元はNTTドコモのdTVというサービスのために制作されたドラマ)が短い間だけ劇場公開されていると知った。が、東京ではもう終わっていたので、仙台まで行った。

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フリーターと主婦の不倫を描いた映画だ。

この監督は、性愛を主題に人間の心の機微を描くのが巧い。人が笑い話にしたり、記憶の底に閉じ込めてしまったりするようなことを観察する目線があるからこういう話がつくれるんだろう。だからこれを「不倫映画」と括ってしまうと、沢山のものがこぼれる。

主人公(池松壮亮)がこんなつぶやきをするシーンにハッとした。

“俺って俺ってひでえ人間だなぁ、って思う。
だけどそう思った後に、俺って意外にやさしいんだなぁ、って思ったりして。”

不倫の二人はそんな話をした後で、下着姿のままテレビに映るサンドウィッチマンのトークに笑う。

少し思い当たる。あるある! すぎはしない(この人間観察ヤバいなってほどでもない)。身に染みすぎるというわけではない(そこまで教訓的でもない)。でも、ただこういうつぶやきが身体にすうっと入ってくる。
いわば、絶妙な味つけのスープ。人間はこういう卑下や憐憫や自己正当化の間をうろうろしながら生きているんだな、と気づかされる。

このシーンでふと思い出したのは、20代の頃読んで深い印象を与えられたジェイムス・ジョイスの「死者たち」だ。どんな小説か、深く心に刺さった理由は何かなどは割愛するが、さっき後半部分を再読してみた。

巻末の解説で、訳者である高松雄一氏がジョイスの手法をこう評していた。

「『事物の塊が、その本質が、うわべの衣装をぬぎすてて、われわれに飛びかかる』啓示の瞬間を捉えようとして」いる、と。

それに少し近い。

“ちなみにこれ、ユニクロだから”(佐藤仁美演じる寺島しのぶの妹)とか、この映画の光景の中だからこそ水を得ている台詞が他にもいくつかある。

重すぎはしない。でも軽くもない。なんだこの味わいは…という複雑味のある映画だった。

観客はほとんどいないのでは、という予想に反して、2割程度は入っていた。ぼくの右隣はシニア夫婦、左隣は20代女性、その隣は30代男性だった。仙台、文化度高いなと思った。

彼らがこの映画を観て何を思ったのか、少し話を聞いてみたかった。

この日仙台は雪がちらつく天気で、映画館を出た20時過ぎには2~3cm積もっていた。

適当に入った店で喜多方の「飛露喜」と共に仙台牛の刺身や青森・横浜町のナマコを食べ、駅前泰陽楼で麻婆豆腐焼そばを食べた。

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映画「何者」を観て、小説「何者」を読んだ

Posted on 2016年12月9日. Filed under: 読書, 映画 |

おそらく今日(2016年12月9日)でロードショー公開が終わった映画「何者」を駆け込みで観て、

何者 – 映画・映像|東宝WEB SITE
何者

そしてすぐに小説を読んでみた。

何者(朝井 リョウ):Amazon

ネット上で感想の断片に触れたりして記憶に引っかかっていた。で、意外な面白さに驚き、ある点(後述)について確かめたくてすぐに小説も読んだ。
以下、そのざっくりまとめ。

「何者」とはどういう意味か

物語は、さまざまな考えを呑みこんで就職活動を戦い、内定を得ることで社会に認められよう、つまり「何者」かになろうとあがく若者5人を描いている(実はこのタイトルに込められたもう一つの含意は終盤に明かされるのだが)。いわば就活ドラマだ。

しかしこの映画はネット時代の我々は「何者」かと問いかけていないか?

この映画では小道具としてTwitterが非常にうまく使われている。原作の小説もそうなのだが、小説は物事をリニアにしか提示できないが、映画では人物の行動とTweet(つぶやき)がオーバーラップするシーンが度々ある。その内容がちぐはぐであればあるほど、今や当たり前になった「日常生活についてちょくちょくネットでつぶやく」行為に対する異化効果が(小説以上に強く)生じていると思う。

楽しい飲み会の中にいて、スマホでTwitterをやっているお前は「何者」だ?
エアリプを飛ばし合うお前と相手は、誰に向かって「何者」として振る舞っている?
裏アカで暗い本音を吐き出すお前は「何者」だ? 現実のお前と統合されているのか?

…といった問いかけが行われているような気がした。

人は何かを吐き出し、他者と相互作用することで自己を形作っていく。テクノロジーの進歩は人がアウトプットする「場」「形・長さ」「頻度」を変えてきた(例:Twitterばかりやっていると長文が書けなくなる≒まとまった長考をしづらくなる)。

空想、妄想、公言しづらい暗い想念などは昔の人も持っていたものだろう。が、それをネットで吐き出せるようになった。それによって即座に人とつながれるようになり強化してきた現代人の「自己像(何者であるか)」は、それ以前とはだいぶ様変わりしてきたはずだ。

映画の中で、主人公たちのフラグメント化した自己が交錯していく様子を見ながら、これは若者の就職活動(だけ)を描いたものではない作品になっているなと感じられた。

少なくともぼくはそう感じたのだが、次に、原作の小説からしてそこまでを意図して書かれたものなのか、それともこの映画の監督が広げたのか、映画のイマジネーショナルな表現から自分がそれを掬い取っただけのかを知りたくて、すぐに小説を読んでみた(A)。

メタミステリー/叙述トリックを描く演出に驚き

少し脱線。「何者」は叙述トリックの側面がある作品だ。
主人公のモノローグが多くを占めている小説版でなく、内面を抑制して描きつつ進んでいく映画版の方が、“それ”が判明したときの驚きが強い。それだけでなく、その暴き方は主人公が取り組んでいた演劇をモチーフにした演出になっている。非常にドラマチックで映画版の独壇場であり、圧巻だった(映画好きはここだけでも観る価値があるんじゃないかなぁ)。

三浦大輔という監督はなぜこういう引き出しを持っているんだろう、と調べてみた。

三浦大輔 (作家) – Wikipedia

なるほど、自ら「ポツドール」という劇団を主宰している、つまり演劇に深い造詣を持っている人なのか。納得できた気がする。

映画版のよさと小説のよさ

疑問(A)を確かめるため、映画を観た後で小説を一気に読んでみた。
登場人物たちの性格造形や心の機微がより細やかに書かれているなど、小説ならではの点がある。そして小説版から感じ取れたのは、瑞月の

「十点でも二十点でもいいから、自分の中から出しなよ。自分の中から出さないと、点数さえつかないんだから。これから目指すことをきれいな言葉でアピールするんじゃなくて、これまでやってきたことをみんなに見てもらいなよ。自分とは違う場所を見てる誰かの目線の先に、自分の中のものを置かなきゃ。何度も言うよ。そうでもしないともう、見てもらえないんだよ、私たちは。百点になるまで何かを煮詰めてそれを表現したって、あなたのことをあなたと同じように見ている人はもういないんだって」

といった熱量の高い言葉に象徴されるように、理不尽な状況に打ちのめされながら、何者かになろうと戦う若者たちの物語として読まれるべきだろう、ということだ。

とりあえずここまで。

(ここまではネット上のレビューなどは一切見ずに書いた。後で見てみる予定。)

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黒澤明の「七人の侍(4K上映)」を観る

Posted on 2016年11月3日. Filed under: 映画 | タグ: |

「七人の侍 4K」、日本橋で。
休日のこのチケット獲得は激戦だった。そして今日は「満席」と表示されていた。

黒澤明の名画を観るたび日本人でよかったと思う。同じ日本人にこんな巨匠が…ではなく、この監督の映画に出会いやすい環境=日本に自分が生まれてよかった、という意味で。

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何度も観ている映画なので全体を通して大きな感動はなかった。しかし勘兵衛(志村喬)が初めて登場するシーン、続いて勝四郎(木村功)、菊千代(三船敏郎)が現われたところでは、これから物語が始まるのだなと自分でも意外なぐらいワクワクした。

そして今回もやはり目を奪われたのは、画面からはみ出すほどの躍動感溢れる菊千代。おふざけ、慟哭、全てが野太い(三船敏郎のスケールの大きさが一番出ている黒澤作品は「酔いどれ天使」だと思うが)。
また茂助(村外の家を捨てた男)や万造(志乃の父)などの農民たちも、ときに利己的に振る舞うが地べたで懸命に生きるリアリティーがにじみ出ていた。

今回、新たな気づきがあった。脚本(挿話、台詞)や細かな演技などによって、主役たちのキャラクターの描き分けが何度も何度も、とても丁寧に行われているということ。これは一回観ただけでは気づかない点が多いだろう。

「七人の侍」はとてもわかりやすい映画なのだ。だからこそ名作として残ったのだろうなぁ、と思った。

ついでに。4Kになっても修復できないのは役者の滑舌だ。志村喬は「菊千代(きくちよ)」をちゃんと発音できていない。終盤、菊千代が斃れるシーンでは駆け寄って「きぅちよ! きぅちよ!」と絶叫している。

ついでに。 左卜全という俳優は無学で愚鈍な人物を演じさせたら右に出る者がいないほど絶品だ。今の日本の俳優で、彼とオーバーラップする人がいない。日本の“物語”はもはや彼のような人物造形を求めていないから? そんなことはないと思うのだが。

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