映画

「娼年」(監督・脚本 三浦大輔)を観た

Posted on 2018年4月8日. Filed under: 映画 | タグ: |

映画「娼年」(監督・脚本 三浦大輔)を観た。

娼年

舞台「そして僕は途方に暮れる」に続き、三浦大輔(劇作家・映画監督)の世界を堪能したい者にとって、今年はいい年だ。

“娼夫”になることで人間の欲望の奥深さ・多様さに目覚める大学生が主人公。官能的なシーンが多い(多いどころではない、という見方もできる)。
カクテルをすするときのツッ、という音とか、衣擦れの音とか、〇〇〇(自粛)の音などがとても大切な要素だった。映画館でポップコーン売るのやめてくれ、と何度も思った。

石田衣良の原作をほぼ忠実になぞっているのだが、役者がすごいと場面がこう立ち上がってきて、感動がこう来るのか…と感嘆するシーンがあった。
なかでも客役の女優たちの媚態がすごい。欲情した目ってこうだよなぁ、とか。

三浦大輔の常套手段はセックスを通じて人の何かを浮かび上がらせようとすることだ。が、その描き方を見ると、実は性的なことにはさほど興味がないのでは? と思わせられることがこれまでもあった(本人もいつかインタビューでそう答えていた)。が、手法としてはとても洗練されてきていると思う。

R-18映画だ。日曜の銀座で、東京ミッドタウン日比谷のような上品なスポットで、観客が背徳的な思いを味わいながら成人向け映画を観るという構図をもって完成する何かがある、監督はそのことを目論んでいるのではないか、ともちょっと思ってしまった。
日本で小劇場運動が盛んだった頃、独裁をテーマにした芝居で観客席の出口を官憲に扮した役者たちが塞ぎ、帰ろうとする観客たちと揉めパニックに陥る事件があったらしい。それと似たような意味で。

主演の松坂桃李の尻ばっかり映る、というTweetがあったらしい。18禁映画とはいえモロに映してはいけないものがあるので、そのようになっているのも仕方がない。ちなみに三浦監督の映画では、男優の尻が映る度合いでは池松壮亮主演の「愛の渦」の方がすごかった。

観てよかった。
が、万人には勧めない。勧めたい友人も思い浮かばない映画だ。

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「標的の島 風かたか」感想:知ってしまったら他人事だと感じられなくなる

Posted on 2018年1月14日. Filed under: 映画 | タグ: , |

映画「標的の島 風かたか」の感想、粗削りだが忘れないうちにまとめておく。

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「るるぶ 沖縄ドライブ ’18」というムックを読んだ。米軍基地のことも沖縄戦のことも1ページもスペースが割かれていなかった。マップをよく見ても、渦中の辺野古には「辺野古崎」という記述があるだけ、高江のある場所は「国頭村」という記述だけ。

観光に行きたいと思う人のためのムックだ。だから当たり前、だろうか?
ダークツーリズムという概念も少しずつ浸透してきた。観光ドライブついでに戦跡に行ってみたい、とかニュースで見る辺野古や高江が本当はどういう場所なのか見てみたい、という人もいるのでは。そういう情報を一切排除した観光本は、まるでパラレルワールドの別の時空の本のようじゃないか、と思った。

楽しいことだけを見てワクワクすることだけを追って、それで世の中がよい方向へ向かうならいい。でもそんなことはない。
一方、世の中の暗い面を見て問題をあげつらうことには社会性がある。しかしその態度が強すぎれば多くの人の共感を得ることはできない。

金曜日、「標的の島 風かたか」を観ながら書いたメモから、感じたことをまとめておく。

「知ってしまったら他人事じゃない」。辺野古の座り込みに参加した若い女性の言葉だ。
この映画は、沖縄の外の人間にとって他人事である問題をぐっと自分に引き寄せてしまうような、そんな状況がいくつも描かれている。

「風(かじ)かたか」は、沖縄の言葉で風よけ、防御壁という意味だという。
映画では、風かたかが二つの意味で使われているようだった。

一つは、米軍属の男に殺された女性を追悼する集会で、“私たちはまたも弱い者を守る風よけになることができなかった”という痛恨の表現の中で。
もう一つは、沖縄本島から先島を結ぶラインが、米日の対中国包囲戦略(エア・シーバトル戦略)の中で防御壁として期待される=再び戦場になる恐れがある、という意味において。

ドキュメンタリー映画にはさまざまな手法があるが、三上智恵という監督は、人が語るときのエモーショナルな瞬間を引き出すのがとてもうまいと思う。

映画に登場する人々が語る事実の一つひとつに、強く心を揺さぶられる瞬間がいくつもあった。

ぼくがボランティアとして通っている南相馬・小高では、今も他府県ナンバーのパトカーを見かけることがある。復興のため応援に来ているのだ。
高江でヘリパッド建設を食い止めようと座り込む人たちを排除するため集められた警察車両の車のナンバーは、多摩、柏、品川、福岡、北九州など、沖縄以外のさまざまな県のものだった。

沖縄戦のとき、石垣島の島民はマラリアに罹りやすい山中に強制移住させられ、そのことで約3,600人もの人が亡くなった。お年寄りが幼くして亡くなった孫を背負って埋葬に行くなど、地獄のような状況だった。

石垣島の最高峰・於茂登岳の麓にある集落は、元々沖縄本島から開拓民として移住させられた。苦労して開拓したその集落に自衛隊のミサイル基地がつくられようとしている。

それなりに冷めた目で見ても、イデオロギーに傾いた映画ではない。
自衛隊ミサイル基地の問題では、住民説明会で賛成派が優勢であることなどを描いている。

TVドキュメンタリー「標的の村」は、時間が短く問題がほぼ高江と辺野古に絞られていたため、主張がとてもシャープだった。対してこの「標的の島」は、描く問題を先島や自衛隊にまで広げたことで、やや混沌とした印象だな…と思った。しかしそのことが、映画の終わり方により深みを与えることになったのではないか。

七尾旅人が歌う「兵士Aくんの歌」。これは近い将来生まれるであろう1人目の戦死自衛官のことを歌ったものだという。ラスト、この歌が座り込みに対峙する機動隊員や行進する自衛官の姿に重ね合わせられる。

このシーンを、あなたたちが守っているものが最初にあなたたち自身を殺すんだよ、という意趣返し的メッセージと取ることもできる。
しかしそうではなく、基地問題や、その根源にある国家間の緊張までを鳥瞰し、構図としての悲しさ、虚しさといったものを提示して見せたのではないか? と感じた。

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「海の産屋 雄勝法印神楽」を観た

Posted on 2018年1月4日. Filed under: 映画 | タグ: , |

祭りのように短期的な便益だけでは説明がつかないものを、人はやり継いでいる。
東日本大震災で、祭りが行われていた地域の復興は早かったといわれている。

芸能は、生まれたそのときは時代に寄り添っていたはずだが、やがて様式化していき普遍の部分だけが残る。

2018年1月2日、映画「海の産屋 雄勝法印神楽」をポレポレ東中野で観た。

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津波で壊滅的被害をうけた石巻・雄勝で、その翌年行われた神楽を描いたドキュメンタリー。

祭りによる復興という(よくある、といっていい)見立てを想像した。描き方は淡々としたもので、正直途中までは退屈も感じた。

しかし終盤、海神(わだつみ)の娘・豊玉姫の身ごもりを描く神楽に、震災がなければ存在しなかったある象徴的存在が登場する。

あの災禍をも取り込もうとするしなやかさに、あっと声を出しそうになるぐらい驚いた。

芸能とは、普遍性と今日性、両方を含んでいるのでないか。だからこそ、ぼくら一人ひとりはその意義を説明し尽くせないものだが、集団的意志のようなものが人に受け継げと示唆しているのではないか。

観た後、題名の「産屋(うぶや)」は何層もの意味を持つのだとわかった。こういう描き方もあるんだなぁ。

東北、復興、民俗芸能などに興味ある人は観てほしい。

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映画「ZAN ジュゴンが姿を見せるとき」を観た

Posted on 2017年12月18日. Filed under: 映画 | タグ: , , |

昨夜、銀座で映画「ZAN ジュゴンが姿を見せるとき」を観た。

ZAN ~ジュゴンが姿を見せるとき~

この映画は、基地移設問題の渦中にある沖縄・辺野古を擁する大浦湾に生息するジュゴンを描いたドキュメンタリー。

大規模な開発に反対する人が、その対象地の自然が貴重であることのシンボルとして希少な動植物を持ち出す手法は珍しくはない。それに無条件で共鳴する人もいれば、今一つピンとこない人、胡散臭いと感じる人もいるだろう。

ぼくがこの映画に興味をもった理由は、こうだ。

辺野古に行ったときもらったパンフレットに、大浦湾ではジュゴンのトレンチ(草を食んだ跡)が確認されているとあった。しかし陸から見る限り海は遠浅で、そこに大きな哺乳類が生息していることにピンとこなかった。

ジュゴンはそこでどんな風に生きているんだろう、映像で観られるのかな…と興味が湧いた。それが過半。残りは、自分で実際に行ってみた辺野古の風物への共感だった。

以下、映画を観ながら、そして映画終了後のトークを聴きながら書いた雑駁なメモ類。

辺野古を擁する大浦湾、マングローブ林にはトビハゼやシオマネキもいるんだなぁ(もっとちゃんと見てくればよかった…)。

ZANは沖縄の言葉でジュゴンのこと。Dugongが訛って竜宮になったのではないか、という話が映画の中で紹介される。

ジュゴンは1955年に天然記念物に指定された。が、乱獲や沿岸部の開発によって今では沖縄北部に3頭が確認されているのみ(しかし今年3月、北西部の沿岸で親子と思われるジュゴンが新たに確認された)。

辺野古の埋め立てに先立って環境アセスメントが行われたが、その手法はジュゴンなどが嫌うソナーを使うなどジュゴンを遠ざける効果があるもので、つまりわざと追い立てて生息なしと確認しているので問題がある(と、日本自然保護協会などは考えている)。

自然保護協会の阿部さんは、エビデンスベースで話す人。工事とジュゴンの生息の因果関係を立証することはとても難しい。だけど埋め立て工事が進んでいけば影響が出ないことはないだろう、と断定を避けつつ、良心的な話し方をされていた。

そして映画の後のトーク、監督のリック・グレハンさんがなぜこの映画を撮ろうと思ったのか、というところが響いた。

サスティナブルなブランド構築などを得意とする広告代理店を経営しているが、1% for the planetへの寄付を通じて自然保護協会の取り組みを知り、中でも辺野古の取り組みはとても印象的だった。ジュゴンについてはそれまで知らなかった。出身は北アイルランドのベルファストだが、さまざまな紛争のイメージがある沖縄が、故郷と似ていると思った。

とのことだった。

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映画「サラの鍵」:フランス・ヴィシー政権下で起こったユダヤ人を強制連行事件

Posted on 2017年4月19日. Filed under: 映画 |

DVDで映画「サラの鍵」を観た。

第二次大戦中、ドイツに敗北したフランスにできたヴィシー政権下で起こったユダヤ人の大量検挙事件「ヴェルディヴ(競輪場)事件」をモチーフにしたもの。

パリのユダヤ人街マレ地区では1万人ものユダヤ人が検挙され、競輪場に非人間的な状態で数日間監禁された後、アウシュビッツなどに送られた。もちろん大半の人が生還できなかった。
(さらに…)

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「ヴィジット」(M・ナイト・シャマラン)感想:大作ではないが復調の兆しか

Posted on 2017年1月26日. Filed under: 映画 | タグ: |

映画「ヴィジット(M・ナイト・シャマラン監督)」、ブルーレイで観た。

才能というのは量的に計れるものではないと思うが、よくいわれる“枯れる”は、本当にあるんだろうか。
彼を「シックス・センス」の監督だと思っている人はとても多い。が、(今振り返ってみれば)黄金期は「アンブレイカブル」「サイン」「ヴィレッジ」だと思う。「エアベンダー」を撮ったときはもう終わりだ…と思ったが、この映画を観て、復調の兆しがあるかも、と感じた。

大作ではない。IMDbの評価も6.2/10だ。
音楽がジェームズ・ニュートン・ハワードじゃないのも一つ魅力を削ぎ落としているかも。

しかし彼はやはり巧いのだ。画面の「間」にも「無音」にもことごとく意味があるような、“映画的”な映画をつくれる監督だと思う。

あと、彼の底流にあるテーマは、“壊れ(かかっ)た家族の修復”なんだなぁと今回も改めて思った。

ディスクに収録されていたインタビューで彼はこんなことを語っていた。

「原点回帰」
「キャスティングは監督の仕事の8割」
「ぼくがバスケ選手なら、ストリートバスケに挑んだのが本作」

納得できる言葉だなぁ。

彼にはまだ期待できそうだ。まだ新作が控えているようだし。

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「裏切りの街」(監督:三浦大輔 主演:池松壮亮×寺島しのぶ)を観た

Posted on 2017年1月15日. Filed under: 映画 | タグ: |

映画「裏切りの街 」(監督:三浦大輔 主演:池松壮亮×寺島しのぶ)を観た。

去年12月に「何者」を観て監督に興味を抱き、DVDで「愛の渦」「ボーイズ・オン・ザ・ラン」を観てさらに興味が深まり、この新作(といっても元はNTTドコモのdTVというサービスのために制作されたドラマ)が短い間だけ劇場公開されていると知った。が、東京ではもう終わっていたので、仙台まで行った。

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フリーターと主婦の不倫を描いた映画だ。

この監督は、性愛を主題に人間の心の機微を描くのが巧い。人が笑い話にしたり、記憶の底に閉じ込めてしまったりするようなことを観察する目線があるからこういう話がつくれるんだろう。だからこれを「不倫映画」と括ってしまうと、沢山のものがこぼれる。

主人公(池松壮亮)がこんなつぶやきをするシーンにハッとした。

“俺って俺ってひでえ人間だなぁ、って思う。
だけどそう思った後に、俺って意外にやさしいんだなぁ、って思ったりして。”

不倫の二人はそんな話をした後で、下着姿のままテレビに映るサンドウィッチマンのトークに笑う。

少し思い当たる。あるある! すぎはしない(この人間観察ヤバいなってほどでもない)。身に染みすぎるというわけではない(そこまで教訓的でもない)。でも、ただこういうつぶやきが身体にすうっと入ってくる。
いわば、絶妙な味つけのスープ。人間はこういう卑下や憐憫や自己正当化の間をうろうろしながら生きているんだな、と気づかされる。

このシーンでふと思い出したのは、20代の頃読んで深い印象を与えられたジェイムス・ジョイスの「死者たち」だ。どんな小説か、深く心に刺さった理由は何かなどは割愛するが、さっき後半部分を再読してみた。

巻末の解説で、訳者である高松雄一氏がジョイスの手法をこう評していた。

「『事物の塊が、その本質が、うわべの衣装をぬぎすてて、われわれに飛びかかる』啓示の瞬間を捉えようとして」いる、と。

それに少し近い。

“ちなみにこれ、ユニクロだから”(佐藤仁美演じる寺島しのぶの妹)とか、この映画の光景の中だからこそ水を得ている台詞が他にもいくつかある。

重すぎはしない。でも軽くもない。なんだこの味わいは…という複雑味のある映画だった。

観客はほとんどいないのでは、という予想に反して、2割程度は入っていた。ぼくの右隣はシニア夫婦、左隣は20代女性、その隣は30代男性だった。仙台、文化度高いなと思った。

彼らがこの映画を観て何を思ったのか、少し話を聞いてみたかった。

この日仙台は雪がちらつく天気で、映画館を出た20時過ぎには2~3cm積もっていた。

適当に入った店で喜多方の「飛露喜」と共に仙台牛の刺身や青森・横浜町のナマコを食べ、駅前泰陽楼で麻婆豆腐焼そばを食べた。

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