浪江駅から常磐線乗車 富岡町の夜ノ森の桜ライトアップ 雨の小高でお手伝い(援人 0407便)

Posted on 2017年4月14日. Filed under: ボランティア, 東日本大震災 | タグ: , , , , |

ボランティアチーム援人、0407便、2017年4月8日(土)と9日(日)、(一部)避難指示解除されたばかりの浪江町と富岡町巡りと、南相馬市小高区でのお手伝いのメモ。

1日目、早朝、浪江町・大平山霊園→浪江町・請戸漁港→浪江駅から開通したばかりの常磐線で原ノ町へ→原町の珈琲亭いこいでモーニング→再び常磐線で浪江駅へ→散歩しながら浪江町役場に併設のまち・なみ・まるしぇへ→スーツ姿の警備スタッフがとても多く安倍総理が来ると知る→富岡町・夜ノ森へ→ギネス記録をめざすハイタッチに参加させられる→富岡二中のイベント会場へ→杉良太郎のステージ→さくらモールとみおかで買い物→小高・双葉屋旅館へ→夜は再び富岡町、震災後初めてライトアップされた桜トンネルへ→よさこい踊りに遭遇→帰路、国道6号で浪江町で上がった花火を見る→小高の島魚で夕食→双葉屋旅館で二次会、就寝。
2日目、6国ファミマでY号と合流→朝練→ボラセン→ニーズを1時間で終了→再びE地区へ→ほぼ10回に及んだ大規模竹林伐採ニーズついに完了!!!

残念ながら10人に満たず、せっかくなので2つの空席には「希望」と「勇気」を乗せて八重洲を出発しました! 酔ってないよ。
以前浪江町のお宅でお手伝いしたとき、一気に浪江の方の顔が見えた気がしたし親近感も湧いたけど、今回の富岡のイベントにはまだ帰還されてない方もバスで沢山来るとのことなので、丁寧に見て回ることでしっかり色々感じて来たいと思います。ちなみに今車内はおしゃべり真っ盛りで普段の便より賑やか。皆楽しみなんだなぁ。それでは行ってきます!

朝のファミマ。慌ただしい復興工事の人たちに混じって地元の人が徒歩で来たりしているなぁ。買うものも違うからわかる。いつもバタバタしているとなかなか気づかないことだ。

福島民報に今日の「富岡町復興の集い2017」が大きく載っている。

富岡町復興の集い2017→小高で災害ボランティア(援人 2017年 0407便)

浪江町、町営大平山霊園の慰霊碑。「私達は、災害は再び必ずやってくることを忘れてはならない」。小雨。

富岡町復興の集い2017→小高で災害ボランティア(援人 2017年 0407便)

請戸漁港。確かに南相馬から船は帰っていたが、付近は工事中の荒れ地だらけ。水揚げ施設のようなものも見えず、まだまだという印象。

富岡町復興の集い2017→小高で災害ボランティア(援人 2017年 0407便)

浪江駅から原ノ町へ。大人になって電車の切符(正確には乗車駅証明書)でこんなにドキドキするとは…!

富岡町復興の集い2017→小高で災害ボランティア(援人 2017年 0407便)

原町の珈琲亭いこいで、まったりとモーニング(2回目の朝食)。

富岡町復興の集い2017→小高で災害ボランティア(援人 2017年 0407便)

小高に戻る常磐線の車中で。

電車って、乗り慣れて何の思いもない状況だと気づかないけど、改めて色んな用事や境遇を抱えた人たちをまとめて運んでいる、不思議に有り難い乗り物だと思うなぁ。もうすぐ小高。

そして小高でスーツ姿のビジネスパーソンが降りようとしている。すごい光景だ。

浪江町を歩いてみた。
地震で壊れたり時間経過で傷んだりし、そのまま放置されている建物がとても多い。3~4年前の小高に近い印象だ。いや、小高より栄えていた様子がわかる町だけに、さらに痛々しい。

富岡町復興の集い2017→小高で災害ボランティア(援人 2017年 0407便)

浪江町役場の敷地内にある仮設商店街、まち・なみ・まるしぇ。イベントの準備でここだけ賑わいはじめていた。

富岡町復興の集い2017→小高で災害ボランティア(援人 2017年 0407便)

ダークスーツの(主に)男たちがとても多いと思ったら、安倍総理が来る前の警備のための下見・打ち合わせのようだ(後でニュースで知ったが、例の復興相も来たらしい)。
ぼくらは小女子やお酒などのお土産を買って出発する。

富岡町、夜ノ森の桜のトンネル(残念ながらまだ一~二分咲き)。ハイタッチのギネス狙い的なものに楽しく巻き込まれ中。

富岡町復興の集い2017→小高で災害ボランティア(援人 2017年 0407便)

富岡二中のイベント会場に移動すると、杉良太郎さんのステージが始まった。

富岡町復興の集い2017→小高で災害ボランティア(援人 2017年 0407便)

会場の人たちに向け、震災直後Jビレッジで原発事故の鎮圧にあたった「決死隊」の人の前で歌ったこと、自らも決死隊に志願したいと言ったら年齢がダメですと断られたこと、政府の避難者政策は難があること、福島第一原発事故も終息していないのに原発推進はおかしいこと──などを、歌の合間に語っていた。骨のある人だ。

うわぁ!小高で踏切に引っかかっちゃったよ!(嬉
初体験。浪江行きの常磐線二両だぁ。

富岡町復興の集い2017→小高で災害ボランティア(援人 2017年 0407便)

小高神社に立ち寄ってみた。一番外側の枝垂れ桜はほぼ満開になっていた。

富岡町復興の集い2017→小高で災害ボランティア(援人 2017年 0407便)

双葉屋旅館さんの近くで見かけた、ザ・部活帰りの子たち! 小高には長くなかった光景だ。

富岡町復興の集い2017→小高で災害ボランティア(援人 2017年 0407便)

18時頃、富岡の桜のライトアップが始まる頃に再び観に行ってみた。

富岡町復興の集い2017→小高で災害ボランティア(援人 2017年 0407便)

ライトアップがはじまった桜の下でのよさこい踊りに遭遇。人間がこんなに素敵な光景をつくることができるんだなぁ…。

富岡町復興の集い2017→小高で災害ボランティア(援人 2017年 0407便)

小高への帰路、国道6号沿いに花火が上がった。「浪江町へおかえりなさい花火大会」で300発の花火を打ち上げたという。

富岡町復興の集い2017→小高で災害ボランティア(援人 2017年 0407便)

夕食は小高の島魚さんで。小高で魚を楽しみながら日本酒を飲める幸せ(2回目)。

富岡町復興の集い2017→小高で災害ボランティア(援人 2017年 0407便)

翌日はいつも通り小高、南相馬市ボランティア活動センターの下でのお手伝い。

一軒目。他市に避難中のお宅の大きな庭の笹・雑木の伐採。

富岡町復興の集い2017→小高で災害ボランティア(援人 2017年 0407便)

結構雨が本降りに。ニーズは一時間で終了。センター長と交渉して継続のE地区の現場の仕上げへ。竹→竹だ。

移動中に見た飯崎のしだれ桜。

富岡町復興の集い2017→小高で災害ボランティア(援人 2017年 0407便)

そしてE地区の竹林伐採、ついに終了ッ!!!
この大プロジェクトに関わった多くのメンバー、お疲れさまでした!

富岡町復興の集い2017→小高で災害ボランティア(援人 2017年 0407便)

小高神社。鳥居のそばの桜も咲いてきた。2件のお手伝いを完了し、これから帰京だ。

富岡町復興の集い2017→小高で災害ボランティア(援人 2017年 0407便)

振り返り。

富岡さくら便、出してよかった。何より富岡の桜が美しく、避難指示解除された浪江町と富岡町の明るい面も暗い面も知ることができた。浪江町から原ノ町まで電車に乗った体験は自分でも驚くほど気持ちが浮き立った。
浪江町のかつての賑わいの面影。Sさんの店舗とその周辺も歩いたが、残念ながら戻らない判断をされた理由がよくわかる気がした。

富岡の桜イベント、思った以上の人出に驚きうれしくなった。が、14時を過ぎると多くの人たちが列に並び大型バスで帰っていく。まだ仮設で暮らしている方も多いのだろう、と寂しくなった。さくらモールとみおか、店内にいると避難指示解除されたばかりとは思えない充実ぶり。今後も旧避難指示区域最大の店舗として頼られるのだろうな。ライトアップされた桜のトンネルの下でのよさこいは幻想のようにきれいで、踊り手の笑顔が、原発事故後であっても自分たちはこのように生きていくんだ、というメッセージのように感じた。

今日、お手伝い。Y号で強力な援軍が3人駆けつけてくれ、朝練のアドバンスもあり、2件のニーズ完了。宿願の蛯沢がやっと終わった。今回は終了日だったので人員配置の細かい割り振りをしなかったが、伐採がYさん一人のときでも枝打ちが常に停滞した。一工程が滞るとリカバーに余計な力が必要になることが多いので、次回以降もウォッチして必要な采配をしたい。

福島第一原発事故は、日本人に刻印を押しつけたと思う。去年大ヒットした映画「シン・ゴジラ」と「君の名は。」は、どちらも原発事故“後”のリアリティーや深みがある。

戻ってからさまざまな考えが浮かんできた。それを言葉にしてみたい。

  • 国が放射線量によって区域を三つに分けたのは、町をなんとか温存するためには正しい政策だった(と、今なおさら思う)。
  • ただし、帰還を前提とするなら、避難は(ある識者も提案しているように)極力町丸ごとで行うべきだった。
  • 除染だけでなく、家や町が朽ちていかないためのケアを早くから精力的に行うべきだった。たとえ住民の立ち入りを制限している時期であっても、戻るよすがである家を住めない状態にしてしまうのは何としても避けるべく、公的なサポートを集中させるべきだった(1)。特に、地震で家が傷み雨水や獣によって家が住めない状態になってしまったこと(小高でもこのケースを多く見聞きした)について、国の不作為の責任はとても大きいのではないか? 住民は修繕のために戻ることはできなかったのだから。
  • 浪江も富岡も解除が濃厚になってから急ごしらえで店ができたが、もっと早い時期に(目安として2~3年以内に)ごく小さくても放射線量の低い地域に店など最低限のインフラを整え、きれいにした家々と共に避難を解除すべきだった(もちろん補償とはデタッチした上で)。小さくてもコミュニティーを保ったまま帰還できるエリアをつくり、それを成功ケースとすべきだった。
  • 5年、6年は本当に長すぎた。町を元に戻す資源(さまざまな縁、インフラなど)をほぼ使うことができなくなり、ポジティブな意味でもなんでもなく、資源なしの「再創造」になってしまう。つまりチャレンジャー的な人しか戻れない。
  • 特に、町の将来の消長に関わる若い世代に含まれる子育て世代にとっては3年を超えて教育や仕事の見通しが立たないと高い確率で帰還を断念せざるを得ない。町の再興を期するならこの世代にこそ重みづけをして手厚く施策を行うべきだった。

(1)については今からでも、できるだけ力を注いでやるべきだ。浪江町を歩いたが、解体・整備など含め小高のレベルに戻すのに、まだこの先2~3年はかかるのではないか。その間に希望は細っていく。ボランティア──というのは元々「志願兵」という意味なのだ──でもなんでもいい、使える手はなんでも使って、少しでも人が戻れるよう町を立て直してほしい。

もちろん、できることならお手伝いしたい!

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