震災小説「無情の神が舞い降りる(志賀 泉)」を読んだ

Posted on 2017年3月12日. Filed under: 読書 |

東日本大震災を描いた小説「無情の神が舞い降りる(志賀 泉)」、読了。

作者は福島県南相馬市小高区出身で、2004年に太宰治賞を受賞している。
別に3月11日に読もうと決めていたわけではなく、福島民報で知ってAmazonで注文したら金曜に届いたので今日読み切った。

中編2つ。
表題作は、原発事故が起こって立ち入り禁止となった町(小高区がモデルだと思われる)に、寝たきりとなった母親のために一人残る「俺」の話。誰もいない町で、小学生の頃の悲しい思い出がある場所を訪ね(不法侵入し)、そこで動物救護ボランティアの女と出会い、主人公の膠着した心が動き出すというストーリーだ。

もう1つは「私のいない椅子」。
沿岸の町で被災し、「阿武隈を裏側から」見る町に避難してきた女子高生の話。あるきっかけで彼女を主役にした映画制作の話が持ち上がる。自分とヒロインを重ね合わせ出演に応じた彼女だったが、複数の人間の思惑で脚本は書き換えられていく。「海が見たい」というタイトルは「私を故郷に帰して」に変わる。「私は、こんな風に考えたことは一度もないから」と彼女は反発する。

「震災って大きな出来事だけど、私たちひとりひとりは小さな出来事で泣いたり笑ったりしてるんです。…つまらないことで傷ついたり、ちょっとした偶然に励まされたり。…誰でも同じはずなのに、どうして映画やドラマだと話を大きくしちゃうんだろ」

この言葉は、去年と今年、相馬農業高校飯舘分校やふたば未来学園の演劇を観てハッとさせたられた高校生たちの“震災観”と通じているなと思った。

表題作は閉塞感が強かったが、こちらは話がよく動き、主人公に生命感もあって面白かった。

部外者のぼくらは「典型的な被災者」という枠に個々の人たちをはめ込もうとしてしまいがちだ。でも、どんな大きな災害であれ人が経験し感じることは人のそのときどきの状況との掛け合わせによって生まれるものだ。

静かになった町に奇妙な安堵感を抱くこともあるだろう。
避難するバスの車中で隣に座った人が意中の人だったら、高校生なら胸がときめくかもしれない。

震災という大きな主語に覆い隠されてしまうような人の生き様や思いを表出させるには、小説という形態はとても意味があるのではないか、と改めて思った。

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