「走る」(倉本聰 富良野GROUP いわきアリオス)を観た

Posted on 2017年2月13日. Filed under: 演劇 | タグ: |

「走る」。いろんな意味合いを仮託できる豊かな言葉だ。また、必死で走ることを批判したり、走らないことをなじったり、多義的な使われ方をする言葉でもある。
だからといって、「走る=人生」なんてことをやったら陳腐なんだけど…普通は。

倉本聰率いる富良野GROUPの“最後の”演劇(一部では閉店詐欺ともいわれているらしいが)「走る」を観た。東京でチケットが取れなかったので、いわきアリオス(福島県いわき市)で。2017年2月10日(金)。

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ほとんど全編、マラソンランナーたちが走るシーンで構成されている。

開幕し、多様なランナーたちがスタートのために密集し身構えるところで、まずワッと鳥肌が立ちそうな感覚を味わう。
ダッダッダッ、ダッダッダッ、ダッダッダッ、と歩調が揃った重低音が鳴り響くシーンでは、わけもわからず感動が湧き上がってくる。

(終わった後で隣に座っていた老婦人と少し話をした。いわき湯本から来られた方で、マラソンのボランティアをやったことがあるという。「でも、走っているのを見るだけで涙が出てきたのは初めて」と感嘆していた。)

ランニング中に起こる出来事は人生のさまざまな場面を象徴しているようだ。
連絡の途絶えた男を追い求める女。成績表に「姑息」と書かれた男、失ったパートナーのシューズを履いて走るゲイ、オルタナティブな哲学にハマる男に心酔しひたすら尾いていく女、海外派遣されることを恐れる自衛官、など。

盲目の少女ランナーに父親が伴走しているが、やがて力尽きて若い男に「絆」を託す。何を象徴しているんだろう。やっぱりそういうことかな。

倉本聰らしいなと思ったのは、戦後復興のために「走ってきた」、でも「欲望のままに突っ走ってしまった」、今や若い世代はヴァーチャルな世界に閉じこもっている、などあまりにも紋切型の史観や若年層批判が出てきたときだ。この演劇は老年世代が溜飲を下げ若者を説教するためのものなのか? とイヤな気分になった。

が、最後の最後、前半で蹴落とされてしまったエリートランナーが満身創痍のゴールをする場面。その融和的なモノローグで暴力的な感動に襲われた。観に来てよかった、と思った。

演劇は面白いと思う。シットバックして評論家的態度を崩さずに観賞し続けることがたやすい映画に比べて、そもそも見当識を失ってしまうような効果がある。でもその中で味わった感情はどうか? と考えれば、それも含めて価値があるものだ、と思う。

帰りの電車はもうないのでいわき泊。駅近くの居酒屋でいわきの「太平桜」という日本酒をのんだ。

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