「ゴドーを待ちながら」(こまばアゴラ劇場)

Posted on 2016年10月30日. Filed under: play | タグ: , |

サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」、こまばアゴラ劇場で(2016年10月20日)。
20代の頃から機会があれば観てみたいと思っていた。たまたま公演情報が目に留まったので行ってみた。

現代風にアレンジされたものなどではなく“正統な”ものが観たいと思ったが、調べてみるとベケットの演劇は改変は一切許されていないんだとか。

ゴドーを待ちながら

平日の午後なのに満席だった。東京は文化が厚いなぁと思った。観客で目立っていたのは演劇系知的女性、それと文芸評論家っぽい風貌の壮年男性など。

劇場は狭く、舞台と観客席は地続きでエストラゴンの靴の臭いが本当に漂ってきそうな距離だ。観に来た甲斐がある。しかしクッションが極薄のスタッキング椅子で3時間もゴドーを待ち続けるのは、なかなかの苦行だとやがて思い知る。尻が痛いので前傾姿勢を取ると、今度は首が凝ってきたり…。

キャストで最も意外だったのはポッツォだ。戯曲を読んだときは小太りの成金みたいなイメージを持ったが、登場した俳優の中で最もガタイがよく恫喝の声も本当に怖く、この点が全体に大きく影響していたと思う(悪いという意味ではない。そういう解釈なのだな、と)。

原田大二郎演じるエストラゴンは、第二幕終盤の独白が特によかった。彼が“主役”だと感じた。

戯曲とは違う気づきが終始あり、芸術(気恥ずかしいが、他にいい言葉も思いつかないので)はやはり演出・コンテクスクトなのだなと思った。俳優たちに魅せられているうち、(新訳ということもあるだろうが)気に留めていなかった台詞が立ち上がり、刺さってくる。

戯曲本(白水社版)の解説に、この劇の構造は“収縮していく円環”だとあった。二幕は一幕の繰り返しで、より端折ったものになっている。その点をなんとなく意識しながら観た。

ベケットはこの作品を“おそらくの演劇”だと語ったという。不条理劇なので解釈は好き勝手にできるのだが、エストラゴンが使いの少年に「ゴドーに伝えてくれ。私に会ったと!」と言うとき、漂う哀切さは何なのか。
“いつやってくるかもわからないゴドーを、何を(どんな暇つぶしを)してやり過ごすか”と捉えれば、次の台詞も活きてくる。

「むだな議論で時間を費やすべきじゃない。なんとかすべきだ。機会をのがさず! 誰かがわたしたちを必要とするのは毎日ってわけじゃないんだ。実のところ、今だって、正確にいえば、わたしたちが必要なんじゃない。ほかの人間だって、この仕事はやってのけるに違いない。わたしたちよりうまいかどうか、そりゃ別としてもだ。われわれの聞いた呼び声は、むしろ、人類全体に向けられているわけだ。ただ、今日ただいま、この場では、人類はすなわちわれわれ二人だ。これは、われわれが好むと好まざるとにかかわらない。この立場は、手おくれにならないうちに利用すべきだ。運悪く人類に生まれついたからには、せめて一度ぐらいはりっぱにこの生物を代表すべきだ。どうだね?」
(安堂信也氏・高橋康也氏の共訳。今回は川井祥一郎氏の新訳)

しかしこの劇の中のこのように一つながりで意味をもった台詞はほとんどなく、道徳劇と解釈するのは皮相かもしれない。引っかけ問題か。
でもぼくという受容器はそのように(も)観たということを残しておく。

面白かった。観に行ってよかった。

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