熊本地震の傷が未だ癒えない南阿蘇村・益城町でお手伝い(援人 2016年8月19日~28日)

Posted on 2016年8月30日. Filed under: volunteer | タグ: , |

今年4月に起こった熊本地震。2016年8月19日(金)から28日(日)まで実質8日間にわたって、その被災地である熊本県益城町、南阿蘇村などにお手伝いに行ってきた。

以下、備忘録としてFacebook投稿や手元のメモを時系列で並べたもの。

行ってきます、九州・熊本へ災害ボランティアに。一週間も猫に会えないのは寂しいけど。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

午前4時の名古屋港すげえぇ。スチームパンクの世界だ。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

新名神高速道路 土山サービスエリア。
ニシカワ(兵庫加古川)のパン。おいしいんだよねぇこれ。食べたことないけど。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

ちょうどおめざの時間なので、買っておきました。
山陽自動車道、三木SA。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

宮島SAはもみじまんじゅう選び放題!

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

関門海峡。ついに九州が見えた!

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)


熊本県に入りました。40度近い猛暑の中「いきなり団子」食べるよ。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

熊本でのお手伝い一日目。復興サイダー飲んでがんばろう!

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

6:54、出発。昨日現場視察、夜の話し合いを経て西原村での納屋のお手伝いに決定。道具はHさん経由で西原村ボラセンに借りられる見込み。

西原村ボラセン。手入れの行き届いた道具多数、垂涎。
道具だけでなく、施設のレイアウト、ボランティアの受け入れ態勢など、これまで見たどのボラセンより洗練されていると感じた。さまざまな災害を経て、国内の災害ボランティアについてのノウハウが蓄積され速やかに展開されているということだろう。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

納屋解体、進捗20%程度で終了。瓦を全て撤去、屋根剥がしを1/2弱。難しかった、そして逃げ場のない屋根の上は灼熱すぎた。

益城町から車で30分ほどの西原村で、納屋解体のお手伝い。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

…だったが、結局進捗20%ほどで撤退。鉄骨で補強もされた頑強な構造だったため、予備的な作業しかできず。潰れた部分が私道を塞いでいたため、依頼主は撤去を希望されたのだが、逆に私道に圧し掛かるように崩壊してしまう恐れがあったからだ。

写真や文章では伝わらないな、と思った日。

活動中の写真を見ても、今日の灼熱の暑さの中での作業の厳しさ、瓦の焼けるような熱さは写っていない。

益城町や西原村で見た、地面に伏したように潰れた家屋。今にも隣家を巻き込んで崩壊しそうな家。次に地震が来たら走行中の車の上に倒れかかりそうなコンクリート塀。母屋のダメージが大きく、ガレージなどを改造して暮らしている家。

こういった現実と隣り合わせで暮らしている多数の人たちの苦境は、文章だけでは伝わりそうにない。

益城町の町中の道路は、亀裂が走ったり路肩(主に歩道部分)が崩落しているような箇所が多くある。

道路には大きなゴミ(恐らく被災財)が落ちている。赤紙が貼られ解体を待つ家のベランダには震災時の洗濯物が干されたままだ。人の心が疲れ、荒れていると感じる。

昨日、西原村のお手伝い先を事前下見しているとき、電信柱に山鳩が一羽飛んできて、ぼくらの様子を見ていた。今日、炎暑の中でお手伝いしているとき、少し離れたところから山鳩の鳴き声が聞こえた。

今日一日のぼくらの苦闘を、どんな目で見ていたのか。

彼/彼女の興味の範囲外かもしれないが、苦境にある人たちの状況を少しでも多く変えるお手伝いをして帰りたい。

益城町、宿泊先のYさん宅近くの家で短めのお手伝い。現在仮設で暮らす(ようやく当選して避難所を出ることができたばかりの)方のかなり傷んだお宅から、使える食器などを少しだけ持ち出す。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

お手伝い先でもらった大量のオクラは、早速夕食に。おいしかった。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

2日目。朝は益城あんぱん食べてエネルギー充填。

南阿蘇、OPEN JAPANの下、DRT重機(バックホー)と共に農家の家屋の後背の高台、地震と豪雨で崩落したという石垣の修復のお手伝い。崩れたブロック塀の掘り起こし、運び上げ(途中からキャタピラー運搬車を利用)、法面の整備、土嚢袋作り、ブルーシート掛け。一方、本格的に崩落した石垣は、石の掘り起し、家の壁の裾に迫る石の運び上げ、バックホーのバケット乗せなど超重労働。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

OPEN JAPAN/DRTの3人(うち、特に男性2人)は、自身のスキルが高いだけでなくサポ―ティブ/サーバント型のリーダーシップにも長けており、感心した。恐らく少人数で難局を打開する経験、そしていわゆるボラバス的なスキルまちまちのボランティアたちをアシストする経験を積んでいるからだろう。

作業進捗は、先方が3日を見込んでいたところ、たぶん今日だけで2日分ぐらいは終えたと思われ、よかった。作業内容も一抱えもある石を掘り起こし持ち上げる超重労働から、土嚢袋づくり、デリケートな法面整備まで(←常総・石塚さん宅での経験が活きた)幅広くあり、それらに問題なく対応できた。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

重機のサポートにおいても、重機だけでは処理し切れない部分でよく連携でき、結果作業効率は上がった。

熊本・南阿蘇で。地震と豪雨で崩落した石垣の復旧のお手伝いをし、ドロドロに。依頼主に近くの風呂について伺ったらウチで入ってけ、と。まさか個人のお宅で…と躊躇したら、温泉宿のオーナーだった。8月17日に再開したばかりだと。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

お手伝いを終えてYさん宅に戻り、昨日救出した食器類を現在は仮設住宅に入っている近所のお婆さんに持っていくところ。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

80代後半だが元気なお婆さん。家に残してきた高い味噌や鍋のことを気にされる。

お話好きで話はぽんぽん飛んだが、「幕の内弁当やおにぎりは見たくもない。拒食症になるほど」(たぶん直前までいた体育館の避難所で出されていた食事だろう)という言葉がショックだった。

山肌。山は自然に治るだろう。
一方、人が造ったものはそうはいかない。
人がなんとかするしかない。
壊れないようにするためには備えるしかない。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)


休息日。
早朝、熊本城ランニング。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

いったん益城まで戻って、健軍から市電に乗って一本前で降りて清流。水前寺。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

熊本市内で。車幅が広く駅の間隔が長い電車に比べて、市電は車内が狭く頻繁な乗り降りが繰り返されるため、譲り合いなどのよい習慣が育まれる傾向があるのかな、と思った。

熊本ラーメン。 熊本ラーメンの名店で、黒とんこつラーメンにおける卵黄の役割について哲学的ひらめきを得た。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

熊本県伝統工芸館。
ちょっと期待と違ったけど、熊本各地で陶芸をつくる人の作品が沢山見られたのはよかった。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

熊本城下でお土産を買い、かき氷を食べる。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

夜は、地元のKさんが予約してくれた「小坊主」という飲み屋へ。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

熊本は馬。馬のヒモの串焼き。東京では食えねぇ。

益城に戻って復興市場・屋台村。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

「なんでよりによって自分や家族の身にこんなことが降りかかるんだ」

熊本地震で被災した人の多くが、きっとそう考えただろう。

早朝、外周をランニングした熊本城は「満身創痍」という表現の見本のような有り様だった。
しかしこの痛々しい状態の熊本城の周りを走ったり犬と共に散歩したりする人は多く、この城は熊本市の生活の一部だったのだと思い至った。

昼、再び熊本城周辺を観光する中、市役所の最上階に昇ることができて熊本城がよく見えるよ、という話をメンバーの一人が聞いた。

市役所の最上階にエレベーターで上ってみると、大ホールは震災被災者の相談会場だった。相談を待つ人々の背を丸めた姿を目にして、一気に心が萎む。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

熊本城は見えた。天守閣の落ちた瓦、無残に崩れた城壁、通行禁止のテープなどが目についた。
だけどそこにある。この城がそこにある以上に重要な意味が、今あるんだろうか。

ないだろうな、きっと。
気温37度の酷暑の中で考えたことだが、よりクレバーな考えがあるのなら、熊本城の前まで来て教えてほしい。

24日。

南阿蘇のお宅で、豪雨で崩落した家屋裏の法面整備、2日目。

最初3日ぐらいかけて…と言われたが、小高のペースでやれば1日強の作業量だった。が、猛暑だったこともあり、半日足したことでシート掛けなどを丁寧にやることができた。チームに根づいている協働力、常総で得た土嚢袋づくり、活用、法面整備のスキルなどが活きた。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

熊本市内は夕立があったが、南阿蘇でも降っただろうか。シート掛けの効果が早速出ているといいな、と思う。

熊本・南阿蘇でのお手伝い、終わり。メンバーの連携は南相馬で培ってきたもの。そして法面を均したり土嚢袋で“築堤”するスキルは常総でのお手伝いで身につけたものが役立った。

今日の熊本市の気温は37.1度だったらしい。標高が高い南阿蘇はもう少し涼しく感じたが。

熊本・益城町の安永神社。まだまだ復旧途上。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

益城復興市場屋台村の楽しい夜。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

益城復興市場の「誠翔」さんで、森伊蔵がフツーにのめて幸せすぎるので投稿します。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

益城の復興商店街・屋台村に数日通うことになったが、溌剌とした店員がいるお茶屋さん、おいしいキムチ屋さん、美容院、床屋さん、中華料理屋さん、小料理屋さんなどはほぼ全部近くに実店舗があり、いずれも傾いたり大きく損傷していたりして営業できる状態にない。屋台村で楽しく飲食した後、明かりが乏しい道路を、それらの店舗を横目で見ながら歩くのは侘しかった。

それでも商店街・屋台村の人たちは明るくがんばっている。忘れられない。


熊本5日目、南阿蘇村・立野地区でお手伝い。

雄大な自然の中、ゆるやかな斜面のところどころに家が建っているが人の気配がしない。この地区は水道が未だ復旧しておらず、住民の方々はほとんど避難中のようだ。かつての市町村合併の弊害で公的工事に遅れがあるらしい。原発災害の避難指示区域の例を見るまでもなく、復旧が遅れれば遅れるほどコミュニティーは四散してしまうのでは…。

お手伝いは、豪雨被害の家屋裏の土砂出し。それが午前で終わりかけ、追加で納屋の泥出し(薪などを積み上げた部屋で、それに泥が絡みつきかなり大変)、それも終わったので庭の草刈り(追加で到着した刈払機や手鎌で)。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

個人としての反省。昨夜飲み過ぎてしまい、二日酔い状態で普段の半分ぐらいしか力が出なかった。復興のため飲み食いするのは楽しいが、ボラ活動に支障が出るようでは全くダメ。明日は体調を整えて最後のお手伝いに臨む!

なだらかな山間を行く道路は通行止めや崩落をせき止めるため応急工事がされた箇所が多い。山腹に点在する家屋は傾いたもの、ブルーシートを屋根に張った家がやはり多い。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

熊本では、土台部分に立派な石組みをした家が多い。

東日本大震災でも、海岸の防風林が津波のすさまじい力で根こそぎ流され凶器になってしまったという話があるが、長く家を守り続けた立派な石垣が、地震が引き起こした強い力によって人家に襲いかかっているケースが見られる。

熊本に来てさまざまなものを見て感じるのは、住む家を復旧しなければならないという短期の問題が未だにあり、修繕を待つ間屋根を守るブルーシートを定期的に交換しなければならないといった中期の問題もあり、そして地域によっては被災した家があまりに多く、町の維持に必要な人々が戻れない・離れていくという長期の問題も始まっているのだろう、ということだ。

熊本でのお手伝い、残り1日。

益城の屋台村、二日め。

初・太平燕(タイピーエン)。今日も汗まみれで働いたからとってもうまい。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

そしてカッコいいTシャツ買ったばい!

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

朝ラン終わって朝食中。熊本でのお手伝い最終日。今日は36度。涼しすぎて風邪引きそう。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

26日、最終日。

「地震がまだ終わっとらんばい」。熊本・益城、今日のお手伝い先で聞いた言葉。

益城町の社協ボラセンでのお手伝い。予想はしていたが不合理な点が多い。受付が遅い、ベテランと初心者を同列に扱う、団体を受け入れない、など(東北の経験者がボラセン運営を支援した常総はもっと合理的だったと思う)。リーダーを務めたOさんによるとニーズはまだまだあるのだが、軽トラ不足などがボトルネックになっているという。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

お手伝いは、ボラセンが何度か入った個人宅(解体予定)から家財の搬出、仕分け、軽トラ積み(今日は被災財集積場が休みでボラセン持ち帰りのみ)。小高でなら90分ほどの作業。リーダーはリピーターだが温厚な性格のためか指示はあまり出さず(しかも自ら軽トラに乗って道具調達などに行ってしまい)、代わりに別の人が「リーダー」として、わかり切ったことまで細かく指示を出す、というややおかしな進行に。まあニーズは軽いものであり、無事終わったからよしとしたい。

熊本地震 南阿蘇・益城町で災害ボランティア(援人)

5日間のお手伝いを振り返って。まず「状況がわからない被災地に」「見知ったメンバーばかりのチームで」お手伝いに入れたのはとてもよかった。毎日が今日のようなチームづくりからのお手伝いだった場合、ここまで効率のよいお手伝いはできなかったはず。元気村Hさんは援人の特性をよくわかってくれ(今回は要求度が高すぎたが)、OPEN JAPAN/DRTの面々はスキルが高く人を使うのも巧く、そして地域から確かなニーズを拾っており、彼らの調整の下でいきなりフルのお手伝いできたのは依頼主にとってもよかったはず。

最後に。そもそも熊本に援人メンバーを連れていくというYさんの発案・熱意に大感謝。また、スキルと熱意が高いメンバーが共にいてくれたことで、実質的な効果が高いお手伝いができただけでなく、熊本の震災についてより深みのある考えを持つことができたと思う。
そうそう行けないと思うが、また是非援人メンバーで熊本に行きたい!


熊本でのお手伝いが終わり、急きょ一人だけ空路で東京に戻ることになった。

愛猫ちっこが逝ってしまった。シリンジでの強制給餌などする段階で弱っていたが、東京に戻るまで待ってくれなかった。火葬の前にどうしても会いたかった。

実は熊本に行くことはとても迷った。こういう結果になり、後悔もある。が、人は人のことをまずやるべきだから、という考えで自分を納得させた。
熊本空港で早い便のキャンセル待ちをすると、番号はB7。ダメだと思ったが、最後の一席(出発時刻寸前のアナウンス)で呼ばれ、乗ることができた。ただし搭乗口までそれなりのダッシュを強いられ、機内では遅刻してきた生徒のような目を注がれたが。

席は一番後ろ。一人で旅をする小学生2人(別々で、小学2年の男の子と小学4年の女の子)の隣だった(ぼく自身も小さな頃こんな風に飛行機に乗ったことがある)。

これがとても心が弾む巡り合わせだったのだ。

女の子はしっかりしたお姉さん風の振る舞い。自由研究のノートに熊本地震のレポートを書いていた。
男の子の方はまったく落ち着かない可愛いガキ。熊本で滞在したお爺ちゃんの町の名前も覚えていない。
女の子のノートの内容をチラ見すると「ボロボロの熊本城」「益城町のいま」といったタイトルが並ぶ。
聞き書きしたのだろう、メモ帳を見ながら地震で傷めつけられた熊本の様子を文章にまとめているところだ。ぼくもそこに行ったよ、酷かったよね、と話しかけたい衝動を抑えた。

印象づけられたのは、彼女の様子に暗さがないことだ。
一週間熊本のボラで消耗したぼくは、復旧半ばの町について陰鬱な気持ちを持ち帰るところだった。生きてきた年月、残り時間などの違いだろうか、彼女は見聞したものをまっすぐに捉えているが、それでも希望が滲むレポートを書いているではないか。最後にこの姿勢に触れ、持ち帰ることができるとは。

火葬に間に合うために便を一本早める必要は必ずしもなかった。しかし羽田に着くと、北総線の事故で京急のダイヤは混乱。結局一便前に乗れたのが幸運だとわかった。

最後の最後に乗れたこと。小学生たちとの巡り合わせ。ちっこの火葬前にゆっくり撫でる時間があったこと。

何に対してかはわからないが、感謝したい。

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