草を刈ることさえしなければ、ここは一体どんな姿になるのか(2014年6月21日 南相馬・小高で)

Posted on 2014年6月23日. Filed under: 未分類 | タグ: , , |

援人の仲間と、常磐自動車道・国道6号線を北上して南相馬・小高に行ってきた、2014年6月21日土曜日のお手伝いの記録。

早朝の常磐道を行く。東北道に比べて未だに舗装がガタガタのところが多いな、と感じる。

南相馬市小高区でボランティア(援人 2014年 非公式 0620便)

東京方面からの現時点での終点、常磐富岡インターチェンジを常磐道を降りる。
道路は通行止めだらけなので、少し行くとカーナビが盛んに「リルートします」と繰り返す。が、示すのは今は通れない道だ。

富岡町で通行証を見せ、帰還困難区域を抜ける国道6号線に入っていく。

南相馬市小高区でボランティア(援人 2014年 非公式 0620便)

街中に入る枝道がほぼバリケードで塞がれた、異様な雰囲気の6号線を行く。
車内の複数の放射線量計がそれぞれ異なるアラート音やバイブ音を発し、輻輳したようになる。

南相馬市小高区でボランティア(援人 2014年 非公式 0620便)

大熊町、福島第一原発に最も近いあたりでぼくの手元の線量計が示した数値は、11.8μSv/hだった。

小高区、南相馬市ボランティア活動センターに到着。天気は晴れとはいえず重い曇りでもなく、薄曇り。

朝礼。社会福祉協議会の門馬会長の挨拶は以下のようなものだ。

「今日で発災から1199日たった。
あの日をご記憶の人もいると思いますが、まさに悪夢だった。思い出すとまだ背筋がザワザワする。
当時、強い地震だけではないらしい、という話になり、テレビはろくなニュースがなく、スタッフが外に見に行った。しばらくして女性スタッフ二人が泣いて帰ってきた。私の家が目の前を流れていきました、と。
夕方になると原発が怪しいという話が来た。炉心溶融なんかしたら、と皆が恐れた。チェルノブイリ以上という情報も出た。
市役所の屋上で南を見た連中が、白煙を見た、大変だ、と騒ぐ。
故郷を失った、と思った。それから市内では食べ物がなくなった。3月13日、スーパーを回っても空っぽだった。孫のための牛乳を必死で探し回った。電話は通じず、郵便物も届かず。まさに陸の孤島になったと思った。
でもそれも終わったこと。
今日は札幌ナンバー、京都ナンバーなど、遠いところから来て小高を救ってくださることに感謝を申し上げたい。どうか小高を救っていただきたい。
事故、ヒヤリハットには気をつけて。」

続いて、松本センター長の挨拶。

「震災当事、市役所には津波の情報はなく、初報は報道で知ったと聞いた。
昨日長崎放送が取材に訪れた。現場を何ヵ所か案内してもらった。
松本さん、何を考えてますか、と聞かれた。
被災者さんには被災をなるべく忘れさせてあげたい。私自身もできれば忘れたい。しかし矛盾することだが、日本全国の人にはできるだけ忘れないでほしい、風化させないでほしいと考えている、と答えた。
ボランティアへのニーズ、未だに月に150件は来る。地元に帰ったら、まだボランティアの手は必要だとぜひ伝えてほしい。」

この日のお手伝い先は、草刈りが二件だった。

一件め、畑に囲まれた駐車スペースのような敷地。果樹がところどころにある。こういう入り組んだ場所の草刈りはセンターに依頼が来ることが多い。

南相馬市小高区でボランティア(援人 2014年 非公式 0620便)

二件めは6号線より海側の個人宅。日本語教師だという外国人のチームなどが先に入っていたところへの応援。ここはぼくらが以前にも伺ったことがある。そのときはきれいに仕上げたのだが、完全にリセットされていた。

南相馬市小高区でボランティア(援人 2014年 非公式 0620便)

南相馬の避難指示解除準備区域(日中立ち入りのみ許され、帰還に向け準備が進められている地域)にボランティアが入ったのは、2012年春のことだ。そしてその夏から広大な田畑を雑草が覆いはじめ、お手伝いの内容に被災財の片付けと共に草刈りも加わった。

2012年と2013年の夏、強健なセイタカアワダチソウとの戦いの中で、何度も通うボランティアは刈払機の扱いに習熟していった。

正直にいえば、まだ人が帰れない場所で草を刈ることにどんな意味が? と考えたことが何度かある。草刈りは依頼主が立ち合わないことも多く(依頼主の多くは遠方に避難されているためだが)、単調なお手伝いになりがちだ。
疑問が浮かんだときは大抵、どんなお手伝いであっても押し付けではなく、被災された方自身がセンターに足を運んで依頼されたものなのだから、と納得するようにしていたが。
グループの参加者からも「帰還が決まっていない場所での草刈りに疑問を感じる」という声が何度か出た。そういった言葉を残して活動に参加しなくなっていった人もいる。

今日は特別通行許可証を使って、常磐道を富岡ICで降り、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町を通って南相馬・小高に到着した。2度めの体験だ。

このルートを通ってくると、原発事故による立ち入り制限区域を見慣れている者の目にははっきりとわかるのだが、国道から町中などに至る枝道はほぼ全てバリケードで塞がれ、草は伸び放題、建物も朽ちてきている富岡町、大熊町、双葉町、浪江町などと比べると、小高の町ははっきり“端正”な姿をしているのだ。
全ての地域とはいえないが草刈りなども行き届き、試験的に田植えさえはじまっている田んぼもある。

刈払機を操りながら、この光景の違いを思い浮かべた。

この小高で、これまで草を刈ることさえもしていなかったら、一体今はどんな姿になっていたのだろうか?
そして、そんな荒廃していく一方の町に一体誰が戻ろうと思うのか?

震災2年めから、よくこんなことが言われはじめた。「これから大切なのは心のケア。(被災財片付けなどの)災害ボランティアの役割はもう終わり」。

東日本大震災は、地震・津波だけでなく原発事故まで誘発してしまった複合災害であり、単純なフェーズ分け、被災状況の括り方などできるわけはない。が、実際にこの考えに呼応するかのように、肉体労働をするボランティアの数はどんどん減っていった。

今残っているのは、実態をつぶさに見ようとする者、小さな声に耳を傾けようとする者だけだろう。

心のケアは確かに大切だと思う。
しかし、被災財を片づけ、ときには手を止めて依頼主のお話を聞き、草刈りや清掃をし、ときどきご自宅に戻る被災者の方々の目に「やがて戻りたくなるような町の姿」が映るようにすること、それは立派な心のケアだと思う。ぼくらはそれをやっている。

被災された方の求めに応じて小高に通い、草刈りをすることを、誇りに思っていい。

帰路の車中、早くもこわばり、一部痛みはじめた身体を意識しつつ1日の作業を反芻し、そんなことを考えた。

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