「いずれ帰る」という人がいる限り、お手伝いを続けよう(南相馬での2013年3月9日・10日 援人)

Posted on 2013年3月17日. Filed under: 未分類 | タグ: , , , |

ボランティアチーム援人、2013年3月9日(土)と10日(日)、週末2日間の南相馬でのお手伝いの記録。

また3月11日がやってきた。東日本大震災から2年めのその日を目前にした週末、ぼくらだけでなく多くのボランティア仲間が東北へ向かっていた。

こないだ読売新聞の全国世論調査で、「被災地の復興が進んでいないと思う」人は69%いるが、被災地の復興のためやっていることが「とくにない」人は22%で昨年の10%から倍増したという奇妙な結果を見た。

震災後に被災地に足を運び続けている者なら、発災直後の切羽詰まった状況はさすがにもうない代わりに、まだやめられない理由も見える。だからぼくらは続けている。
それに加えて、今の被災地の姿を自分の目と頭でしっかり捉えて、東北から心が離れがちな東京圏で伝えるのも重要な役割なのだな、と改めて思う。

朝、原町のセブンイレブンに陳列されていた「バタしょっと」。南相馬の小学生と共に製菓メーカーがつくったというスナックで、東京で探すと全然見つからない。南相馬には沢山あるみたいだ。

南相馬でお手伝い(援人 2013年3月9日・10日) Volunteer at Minamisoma, Fukushima. Affrected by the Tsunami of Japan Earthquake and Fukushima Daiichi nuclear plant accident.

1日めのお手伝いは、ボラセンからそう遠くない小高区大井の事業所だった。

南相馬でお手伝い(援人 2013年3月9日・10日) Volunteer at Minamisoma, Fukushima. Affrected by the Tsunami of Japan Earthquake and Fukushima Daiichi nuclear plant accident.

内容は、側溝の泥出し(他チームから引き継ぎ)、枯れた植木の伐採。そして隣接する個人のお宅の庭に選り分けられた枯れ木・雑草、ビニールハウスのシート、プラスチックなどの被災財をトンパックに詰め敷地の端に並べること。

この日、気温は初夏並みに上がり、暑さと埃の中で、枯れても屈強な茎を持つセイタカアワダチソウをトンパックに押し込む作業はなかなかハードだった。

南相馬でお手伝い(援人 2013年3月9日・10日) Volunteer at Minamisoma, Fukushima. Affrected by the Tsunami of Japan Earthquake and Fukushima Daiichi nuclear plant accident.

休憩時間、依頼主のお話の内容は、自然と震災時に体験したことになった。

孫たちは、激震に襲われ、恐怖のあまり下校中の道路でうずくまってしまった。それを助けて家まで連れてきた男性が、その後浜沿いの家族の安否を確かめに行ってしまった。そして…。
相馬で漁師をやっていた親戚は、津波から船を守るために海に出て、なんとか乗り切った。しかし後で戻ると家は流されてしまい、跡形もなかった。孫の一人は避難中に車と共に流されてしまったと後でわかった…。

グリーンパークの宿泊所では、夜にボランティアを労うちょっとした宴会が開かれた。豚汁を用意したり、仕込みした食材を持参して唐揚げを揚げたりしてボランティアに振る舞う人。もちろん日中は普通にボランティア活動をした上でだ。頭が下がる。

南相馬でお手伝い(援人 2013年3月9日・10日) Volunteer at Minamisoma, Fukushima. Affrected by the Tsunami of Japan Earthquake and Fukushima Daiichi nuclear plant accident.

日曜日、お手伝い2日め。この日のミッションは、「仮設住宅をまわってボランティアニーズの聞き取り」となった。
小高センターは前身の仲町センターの頃も自転車での個宅訪問によるニーズ聞き取り(「自転車隊」)をやっている。そのことは知っていたが、ぼくら援人隊にとっては初めての経験だ。

センター長から傾聴のコツやニーズ聞き取りの注意事項の説明を受ける。その後ワゴンで鹿島区の仮設住宅へ行き、2チームに分かれて個別訪問をはじめた。

南相馬でお手伝い(援人 2013年3月9日・10日) Volunteer at Minamisoma, Fukushima. Affrected by the Tsunami of Japan Earthquake and Fukushima Daiichi nuclear plant accident.

これまでモノ(被災財)相手の災害ボランティアが大半だったぼくらには慣れない活動。さらに初対面の被災者への聞き取りだ。緊張する要素はいくつもあったが、はじめてみると意外とスムーズに進んだ。

仮設に住んでいる方々はこういった訪問慣れをしているらしく、特に警戒されることなくお話ができ、「ありがとう」「遠くからご苦労様です」という言葉も沢山かけていただいた。在宅の方は6~7割ぐらいで、年配女性、次いで小さな子どもと一緒のお母さんなどが多かった。

それぞれの方が、置かれた状況を端的に語ってくれた。どれも重みがあった。

「もう家はないから」という方(お手伝いニーズがないか聞くためには、遠回しであってもご自宅の状況を聞かざるをえないのだ…)。
「いつ帰れるかもまだわからないから、今は何もできずにいる」という方。
「若い人は町を捨てた。私らだけ残っても…」という方。

一方で、居住可能になったらすぐに戻れるようにと積極的に動いている方も少なくはない。

「毎日通って手を入れているよ」という方。
「うちは津波の被害はないし、家はきれいに残っている。ねずみの被害もない。いずれ帰るつもり」という方。

また、家族の中で意見が別れているという方も複数いた。これは想像が難しかった問題だった。

「私は家を荒れ放題にしておくのは耐えられない。だけど息子が『いつ帰れるかもわからない。放っておけ』って…」。
「周りのお宅がボランティアを頼んできれいにしているのは知っている。ただ若い人が『東電に全部やらせろ』というから」。

シニアの方は小高区(皆さん、合併前の名前「小高町」と呼ぶ)に戻りたい思いが強いが、判断は若い世代が握っており、口を出せないという状況が多くあるようだった。

ボランティアの存在は知っている、見たことがある、頼んだこともある、という人も結構いた。また知らないという人でも、お手伝い可能な内容を挙げると関心を示されることが多い。だから、仮設回りが終わったときにチラシは全て捌けた。

元は小高区の方が多く、次いで鹿島区烏崎など海沿いの方、そして一人だけだが、飯舘村から来たという女性にもお会いした。飯舘村と聞いたとき、お手伝いできることが思い浮かぶはずもなく、しばらく二の句が継げなかった。
ただ短くお話を伺うだけとなってしまった。

わずか数時間だが、仮設に住む方々とお話ができたことは、ぼく自身にとって大きな収穫になった。

小高区が避難指示解除準備区域になってそろそろ一年。しかし除染は進まず、帰還までに何年かかるのか、そんな中このお手伝いは意味があるのか、と疑うこともある。しかしこの日、実際に小高に古里を持つ方々の口から町やご自宅への思いを聞くことができ、またボランティアを心強く思ってくれていることがわかったのだ。

この日は快晴だったが、吹き荒れる冷たい強風に凍え、砂塵に叩かれながらの活動だった(東京都心部では「煙霧」が発生していたらしいが)。

3月9日と10日は、南相馬、特に小高区でテレビ取材の車を多く見かけた。警戒区域の再編が間近な浪江町に向かったマスコミも多いとセンターで聞いた。

「節目」だからというのはわかるし、無関心を決め込まれるより取り上げてもらった方がいいけど、終わってないものは1年間365日終わってないのだ。特に民放テレビなどは、もっと普段から関心を注いでもらえないか、と思う。

南相馬でお手伝い(援人 2013年3月9日・10日) Volunteer at Minamisoma, Fukushima. Affrected by the Tsunami of Japan Earthquake and Fukushima Daiichi nuclear plant accident.

改めて、3月11日を迎えることについて。

確か一年めのその日は、牡鹿半島からの帰りのマイクロ援人号の中で迎えたと思う。その時の振り返りは「震災前」と「震災後」の落差を強く意識したものだったと記憶している。終わらないと思っていた日常が非日常に変わってしまったことを改めて惜しむ気持ちが強かった。

しかし2年めの3月11日は、特にそういう思いはない。変化はもう元に戻せず、変わったことも納得済みであり、今もまだぼくは東北に足を運んでいる。

今回のお手伝いでも決意を深めることができた。
「いずれ帰るつもり」という人がいることを知った以上、できるお手伝いを続けていこうと。

Liked it here?
Why not try sites on the blogroll...

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。