雪の牡鹿半島でお手伝い、東日本大震災から1年めを迎える週末に (ボランティアチーム援人)

Posted on 2012年3月23日. Filed under: 未分類 | タグ: , , , , , , , |

マイクロ援人号、2012年3月9日(金)から11日(日)にかけて、宮城県牡鹿半島でのお手伝いの記録。

東日本大震災からちょうど1年めの3月11日。東北の被災地にとって特別な区切りを迎える日を含む週末をどう過ごすか。ずっと東北を気にかけ、東北支援を続けてきた人たちの間でも逡巡があったと思う。ぼくもさまざまなことを考えたが、援人の仲間と共に、その日もお手伝いのニーズがあるという牡鹿半島に向かうことに決めた。

マイクロ援人号は金曜の夜、いつものように東京を出た。満席。結構大粒の雨が降っていた。

牡鹿半島でボランティア(ボランティアチーム援人) Volunteer at Miyagi pref. Deeply Affected by the Tsunami of Tohoku Earthquake

石巻で早朝を迎える頃には細かい雪が降っていた。

いつも朝食を買うために立ち寄るローソンでは、レジ周りにお線香、仏前に供える果物、束花などが並べられていた。3月11日は、行方不明の方を含めると1万9千人以上の方々の命日なのだ、と改めて思い返す。

牡鹿半島でボランティア(ボランティアチーム援人) Volunteer at Miyagi pref. Deeply Affected by the Tsunami of Tohoku Earthquake

牡鹿半島に入ると雪の勢いはさらに強くなり、鮎川浜の牡鹿公民館に着くころには大粒の雪が激しく舞っていた。

牡鹿半島でボランティア(ボランティアチーム援人) Volunteer at Miyagi pref. Deeply Affected by the Tsunami of Tohoku Earthquake

着替えや受付を済ませ、牡鹿ボランティアPikariプロジェクトの代表の遠藤さんから、3月11日に鮎川浜を襲った津波の様子の説明を、DVD映像を観ながら聞く。これまで牡鹿には何度も来たが、現場へ行く前のこの時間はバタバタしているため横目で眺める程度だった。

高台の支庁などから撮影された映像。沢山の家の屋根や車が濁流に呑まれていく。撮影者や近くの人の嘆きの声が聞こえる。そして映像がズームアップしていく中で気づいたのは、あの3月11日にも、鮎川浜では今日と同じ激しい雪が降っていたことだ。
今日のこの雪を眺めながら牡鹿の人々は、1年前にも同じように降った雪を、激震と大津波を、今ここに土台だけになった街区やひしゃげたガードレールが残り、自らが狭い仮設住宅に住んでいる理由を振り返るのだろうな──そんなことを考えた。

牡鹿半島でボランティア(ボランティアチーム援人) Volunteer at Miyagi pref. Deeply Affected by the Tsunami of Tohoku Earthquake

今回のお手伝い場所は、鮫浦(さめのうら)。
2月に援人として初めて出した大型バス「援人号」でお手伝いしたことがある場所で、熊野神社と五十鈴神社という二つの神社の参道の修復がミッションだ。以前ぼくらが作業した後も常駐ボランティアの方々が継続して入ったということで、修復はかなり進んでいた。

牡鹿半島でボランティア(ボランティアチーム援人) Volunteer at Miyagi pref. Deeply Affected by the Tsunami of Tohoku Earthquake

午前、激しい雪が降る中、五十鈴神社の境内や斜面に散乱した瓦礫を拾うメンバー。
この神社正面の参道は、大半が津波で削り取られてしまったため、側面に道をつけ階段状のくぼみを作った上で土のうを積んで仕上げるという作業もある。

牡鹿半島でボランティア(ボランティアチーム援人) Volunteer at Miyagi pref. Deeply Affected by the Tsunami of Tohoku Earthquake

こちらは、五十鈴神社に続く脇道の会談を修復するメンバー。コンクリートの石段は1/3ぐらいがズレたり流出したりしており、また斜面の土砂も崩れかかっている。これを、歩ける状態まで戻していく。

牡鹿半島でボランティア(ボランティアチーム援人) Volunteer at Miyagi pref. Deeply Affected by the Tsunami of Tohoku Earthquake

熊野神社に続く参道の修復チーム。津波で失われた階段の代わりの土のう積みは、あともう少しでフィニッシュという様子。

牡鹿半島でボランティア(ボランティアチーム援人) Volunteer at Miyagi pref. Deeply Affected by the Tsunami of Tohoku Earthquake

砂山から土のう袋を量産しては参道修復部隊に届けるメンバーたち。
この一帯は今ではほぼ更地になってしまったが、かつては鮫浦の集落だったはずの場所。漁業施設や住居が建ち並んでいたはずなのだ。

牡鹿半島でボランティア(ボランティアチーム援人) Volunteer at Miyagi pref. Deeply Affected by the Tsunami of Tohoku Earthquake

昼食。おしかのれん街で注文しておいたクジライス(BeeForさん)に唐揚げ(みさき屋さん)のせ。

牡鹿半島でボランティア(ボランティアチーム援人) Volunteer at Miyagi pref. Deeply Affected by the Tsunami of Tohoku Earthquake

午後、雪はやんだが今度は強い寒風が吹きはじめる。
熊野神社組の作業が終わり、大勢で五十鈴神社の土のう階段づくりにかかる。写真では見えないが、この階段に続くぬかるんだ地面に、砂利を撒いて丁寧に整地しているチームもいる。

牡鹿半島でボランティア(ボランティアチーム援人) Volunteer at Miyagi pref. Deeply Affected by the Tsunami of Tohoku Earthquake

五十鈴神社の手づくり参道も完成し、最後にみんなで記念撮影をした。
「せっかくだから皆さんが作業した階段や神社も入れて撮ったらどうですか」と牡鹿ボラのKさんに助言をいただき、お手伝いした五十鈴神社を背景にしてやや遠めに撮ってみたもの。

牡鹿半島でボランティア(ボランティアチーム援人) Volunteer at Miyagi pref. Deeply Affected by the Tsunami of Tohoku Earthquake

前述のように、鮫浦の集落は津波によって今では跡形もなくなってしまった。が、今は仮設住宅などに暮らす方々が何かの折に神社に来られるときの助けにはなっただろう。牡鹿の人たちにとって、特に今のような苦しい時期には、神社は大切な精神的支柱のはずだ。(実際に前回のお手伝いでは、靴を泥だらけにしながら五十鈴神社に登ってこられる男性と会った。)

公民館に戻る途中、鮫浦からそう遠くない浜沿いの瓦礫の山を過ぎる。まだ未分別のものも、比較的新しいものもあった。

牡鹿半島でボランティア(ボランティアチーム援人) Volunteer at Miyagi pref. Deeply Affected by the Tsunami of Tohoku Earthquake

お手伝いを終えたマイクロ援人号はいつものようにすぐ帰路にはつかず、仙台方面をめざした。この日の夜、18時から20時までの間に泉ケ岳スキー場という場所で2万発の花火が打ち上げられるという「鎮魂花火」を、遠くからでも見たいというメンバーの要望に応えて。

下調べしておいた道の駅に着いたのは19時近く。が、空は今にも雨が降り出しそうな曇天で、花火は見えなかった。
そこに停車したまま、おしかのれん街の黄金寿司さんでテイクアウトしたお寿司の夕食をとった。

牡鹿半島でボランティア(ボランティアチーム援人) Volunteer at Miyagi pref. Deeply Affected by the Tsunami of Tohoku Earthquake

帰路のバス内、この日感じたこと、考えたことをシェアする感想タイム。
この日はリピーターが多かったため、東北支援を続けた1年間の振り返りも含めて自由に話してもらうことにした。お手伝いに踏み出したきっかけ、自分の人間的成長、親しい人が共鳴してくれたこと、くれなかったこと。心動かされる話がリレーされていき、終わった頃には2時間が過ぎていた。

参加者の1人、村田さんがこの日シェアされた感想を書き起こし、Facebookグループ内にアップしてくれた。快諾してくれたので、ぼく自身が話した感想をここに掲載し、この日の活動メモを終わりにしたい。

「僕もちょっと簡単に感想を述べます。

一つめは今日のお手伝いした場所についてなんですけども、ご存じの通り神社ということで。ぼく、実は宗教は信じてません。
神様はいないと思ってますし、自分が死ねばそれで終わりだというふうに思っていて、仮に自分の親族が死んでも、その親族が空から見守ってくれているというふうには考えていないです。
ただ、東北に長い間行き続けて、非常に困窮された状況にある人達がたくさんいるということもわかっていて、そういった方々にとってああいう場所が非常に精神的に大事な場所であろうということは本当に痛いほどわかります。
そういう点で、明日が3月11日を迎えるという日にああいう場所を修復するというお手伝いができたのはとても良いチャンスをいただけたんじゃないかなと。
いろんなお仕事あったと思うんですけど、特にああいう場所をお手伝いさせてもらえたというのはとてもいいことじゃないかなということです。

二つ目はちょっとOさんの話を聞いてて思い出したんで、ぼくもしゃべっておきたいんですけども、ぼく、実は震災のボランティアを始める以前は、個人的にずっと国際情勢というか、例えばすごく弾圧される人とか虐殺される人とかがいろんな国がありますよね、そういうのに関心を持っていて、2011年に中東でいろんな革命が起こったのを今もずっと起こり続けていますけど、ご存知だと思うんですけども、チュニジアという国で始まって、その次にエジプト、次にリビアという感じで、今ちょうどシリアという国で今まさに今日もたぶんたくさんの人たちが殺されているんですけども、ちょうど3.11の地震が起きたときにはリビアが非常に大変な時で、エジプトでちょうどムバラク大統領という五十何年間独裁をとっていた大統領が倒れたということですね。
ぼくはそれをつぶさに追っていて、Twitterで英語圏の情報を拾ってきては日本語で流すということをやっていたりして、例えばアルジャジーラという放送を見たりとかBBCの放送を見たりとかして、いろいろ追っかけていたんですけども、そんな中で向こうの人たちとやり取りをする機会があったりして、皆さん「#prayforjapan」というハッシュタグをつけて海外の人たちがたくさん日本に対して励ましの言葉を贈ってくれたっていうのを覚えていると思うんですけど、実はあれってそれ以前、中東革命の頃からあって「#prayforegypt」っていうムーブメントがあって、それはエジプトが非常に危ない状況にあって、学生たちが武器を持たずにずっとデモをやっている中で、いよいよ軍隊が動き出して、たくさんの人たちが殺されちゃうんじゃないか、という状況で、世界の人たちがせめてもメッセージを送ろうということで、いろんな国の人たちがいろんな自分たちの言葉で、「#prayforegypt」っていうハッシュタグをつけて、つぶやくという運動があったんですね。
それにぼくも参加したことがあって、ただ参加しはしたものの、頭の中ではこんなものが本当に届くのかなと。
ぼく一人が特別つぶやいたからって、なにも向こうの人たちが死ぬというリアリティがあるのに喜びはしないだろうという気持ちもありながら、ただ何かをせざるを得ない気持ちでやったんですけども、まぁそんなふうにどうしても自分事にはできないというもどかしさもありながら、そういう行動をしたんですけども、皆さんもご存知の通り、日本でああいう地震が起きたときに「#prayforjapan」っていうハッシュタグをつけて、たくさんの国々の人たちがつぶやいてくれたと。
それを見たぼくたちがどう感じたかというのはもう皆さんご自分のこととしてわかっていると思うんですけども、こういう力があるんだっていうふうに思ったっていうのが一つ。
僕はそれまでは日本にはあまり変えられる問題っていうのはなくて、そういう虐げられた人達を応援するしかないと思ったんですけども、「#prayforjapan」っていうハッシュタグをつけてたくさんの人達がつぶやいてくれたのを見て、これは日本の問題なんだと、今度は日本の問題に自分が取り組んでかなきゃいけないんだということをすごく思い知らされて、それでこれまでやってなかったような瓦礫撤去のような、必ずしも自分の専門スキルと関係ないようなボランティアもやってみたいなと思って踏み出したという経緯があるということを、さっきOさんの話を聞いて思い出しました。

最後なんですけど、何人かの方が周りの人達をうまくなかなか連れて来れなくてということを仰っていましたけども、僕もやはり同じ悩みを持っています。
とはいえ、友達の何人かは乗ってくれたりはしたんですけども、やっぱりコイツ乗ってほしいなとかコイツにわかってほしいなっていう人達が無反応だったり、非常に淡白な反応だったりすると傷ついたりとかそういう部分もあります。
ただ、それはある意味しょうがないなぁというふうに思っていて、こういうときってアプローチが2つあると思うんですけども、一つはできるだけ自分の身近な人たちを巻き込んでいくというやり方、もう一つは自分の身近な人達がわかってくれなければ、わかってくれるであろう人たちをなんとかして見つけ出すという方法。
それがまさに今、ぼくが皆さんと結びついている方法だと思うんですけども、Twitterを使ったりFacebookを使ったり、あるいは友達の友達を引っぱってきたりという形で、これまで震災以前は全く何の関わりもなかった皆さんとこういう形で結びつくことができている。同じバスに乗って、ボランティアに行くことができている、というのが一つ上手くいったことなのかなというふうに思ってます。
両方だと思うんですね、身近な人たちも巻き込まなければいけないし、とはいえそこだけにこだわっていると、どうしても力を集めることができないので、やっぱりそういうときには外へ出て手を挙げたり声を上げたりして、同じ志を持った人はいませんかというふうに集めていくってこともとっても重要なのかなと思ってます。
後者のメリットの一つっていうのは、やっぱりまさに今日この場所で、皆さんが例えば人に批判されるんじゃないかとか、人に笑われるんじゃないかという恐れなく、自分の心情をきちんと語れるっていうことが、そういう場を持つことができたように、そういう仲間と出会えることなんですよね。
そういう仲間を増やしていくってことが、たぶんこの震災とか今後起きうる地震なんかではすごく力強いネットワークになるんじゃないかなというふうに思ってます。

僕はたまたまボランティアバスに乗った回数が長かったので、伊東さんとともにリーダーという立場をやらせていただいていますけども、皆さんも経験を積んでいますし、そういうことができると思います。
なので、ぼくはどんどん皆さんと結びつきを強めつつ、ネットワークを広げていきたいと思いますし、皆さん自身もその中心となってどんどん仲間を募っていって、多重の網みたいな形でネットワークを広げていけたらすごく強いまとまりになるんじゃないか、というふうに改めて考えています。
本当に1年めで小ちゃなバスではありますけども、こんな形で同じ志を持った仲間とバスで被災地にお手伝いに行けるのはすごい幸せなことだなと改めて今日は思いました。

こんな感じです。どうもありがとうございます。」

7件のフィードバック to “雪の牡鹿半島でお手伝い、東日本大震災から1年めを迎える週末に (ボランティアチーム援人)”

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ボスは中東情勢を追っかけていた時と変わらないですね。
優しく温かい目で被災地を支えて下さって、ありがとう。
来週も南相馬に差し入れに行きます。

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ナ力ノさん外は少し暗くなりました今晚は,この2週間娘達が歸って來ているので,うれしいやら忙がしいやら,一度に娘ニ人孫二人家の中は賑やかです,一台のPCを5人で代り番に使う有樣ですが,月曜日から又靜かになります,ナ力ノさんFBは良いですよ,ブ口グをもっと多くの人に讀ませて下さい,可愛い猫ちゃんも沢山見れます,私も友達です.

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お疲れ様です。
度々こちらのブログを拝見させていただいています。
私は、3/31~4/2の三日間、牡鹿VCでボランティアをさせていただく予定で、すでにVCの方には連絡をしてあります。
全くの個人で行くため、3/30東京発の夜行バスに乗るつもりでおりましたが、もし援人さんが今週末も牡鹿に行かれるのであれば、行きのバスに乗せて頂き、土曜日は援人チームとして作業させてはいただくことはできませんでしょうか?
ご迷惑でなければということで結構です。お手数をお掛けして申し訳ありませんが、ご連絡いただければ幸いです。

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小久保さん、コメントありがとうございます。
援人は0330便は活動はお休み(ぼくは個人的に東北へ行きますが…)、次の牡鹿半島息は0413便となります。
今後の活動予定は、Facebookページを「いいね!」していただくとお知らせが届くようになりますよ。お手伝い、共にがんばりましょう。(^-^)

ボランティアチーム援人
http://www.facebook.com/v.t.engine

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akitsaiさん、ご家族が集って楽しそうですね。(^-^)
いつもコメントありがとうございます。コメントいただくのを励みに、がんばって書いてます。

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marysha_Fさん、いつも仲町センターへの差し入れありがとう(ってぼくが言うのもちょっと変だけど)。
1年めにして思い返したけど、今ぼくがやっていることは確実にあの頃の先にあるよ。震災前に必死でやっていたことが、今自分が没頭していることに補助線を引いていた。そう思います。

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nakanoさん、ご回答下さり、ありがとうございます。
では、チーム援人にはまたの機会に参加させていただきたいと思います。
僕も牡鹿でしっかりお手伝いをしてきます。

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