命のまったく同じものとしてではない再生、スウェット・ロッジの儀式、物語形式の豊かさ、など(「先住民族とアート・アクティヴィズム」最後の講義のメモ)

Posted on 2010年11月27日. Filed under: 未分類 | タグ: , , , |

先住民族とアート・アクティヴィズム」の最後の講義は「「文化的主権」と北米の先住民族」、講師は松井健一さん(筑波大学大学院生命環境科学研究科教員)。

半年間、アボリジニ、アイヌ、サーミ、北米ネイティブアメリカンなどについて話を聴いてきてじわじわと見えてきたものの中で一番大きいのは、漫然と接している「文化」、既得の「権利」の相対性みたいなものか。あとは、「文化」はひからびたスタティックなものなんかじゃないってこと。
特に今回の講義では、半年間で知ったり考えたりしてきたことがくっつき合ってきた感じがする。

とりあえず「要するに面白かった」って感想はTumblelogに吐き出したので、自分のメモを貼りつつ+αで。

(もっと先へ進むために拙劣承知で晒す。ひらがなを覚えた子どもが、街で広告・標識のひらがなだけを大声で読み上げているレベルと思ってほしい。もし専門の方などご覧になり、おかしいところなどあればご指摘ください)

「ナチュラル・デモクラシー(自然物も含めた民主主義)」という話

「文化人類学」とその周縁の話
農耕文化と住環境の変遷や、アートとして扱われる礼拝用偶像の機能的考察など
分類しないこと、学問として分断しないことの重要性
先住民族を考えるときは、宗教だけでも、アートだけでも、歴史だけでもない、という点を理解すべき

もうひとつ、先住民族のホリスティックな世界観
円の周りに狼、水、太陽、魚、風、家、人…などが配されている図
皆同じ立場と捉えている
先住民族が歴史を語るとき、重要なのは人だけではない
人と動物、動物と動物の関係を考えよう、が基底にある

たとえば東西南北の捉え方
東は「黄」、南は「赤」、西は「黒」、北は「白」。こんなイメージがわりと共通している
東(黄)、太陽が昇る、生命の誕生
西(黒)、沈む、すなわち終わる、死ぬ
南(赤)、命が成熟していく、豊饒のイメージ
北(白)、冷たい、英知、死の後に至る世界
東西南北で命が回っていく、常に再生していくもの、と捉えられていることが重要
先住民族の歴史の多くでは、常に死んだ人が再生する。死ぬことが終わりではない

先住民族の伝承に接したとき、私たちは「死=終わり」と捉えてしまうが
死は終わりではない、再生していく、ただしまったく同じものとしてではなく、という点
これがわからないと価値観が理解できないことになる

これは最後に聴くにふさわしい話だったなー。

スウェット・ロッジの儀式の話

「先祖は最初地下の世界に住んでいた。ある穴から出てきた」
アラスカからマヤまで共通してそういう伝承がある。穴は起源だ、という考え方が

「スウェット・ロッジ」で行われる“儀式”の話
儀式といっても宗教的な意味に留まらず、歴史を学び世界観を知るという意味がある

カナダの内陸部の例
(アメリカ五大湖地域のスー族がやっていたが、カナダ、マヤにも同じような儀式が。アメリカ南部のホピ、ナバホにもそういう話もある)

スウェット・ロッジはドーム型の建物。入口は東に向いている
建物内の床には中央に穴があり、儀式をするものは入口を閉ざして入る
小屋内にある穴は起源の穴の象徴
焼け石を作り、穴の中に入れる。石はグランド・ファーザーと呼ばれる
水をくべて焼け石にかけ、生命の木で祓いをする
焼け石に水をくべると水蒸気が小屋内に充満し汗が出る。そこで「汗の小屋」と呼ばれる
先祖が穴から出てくる、真っ暗な中で先祖と対峙する
その後入口を開け、光の中へ出て行く。これは子宮の中から外へ出ることを意味する
これを4回ぐらい繰り返す。
入口を開けることは、光と水が交わることを意味し、生命の誕生も表わしている

これが世界の元型を体感するってことなのか。すごい。

「文化的主権」とはなにか

「主権」について、1500年ぐらいにフランスのジャン・ボーダン(Wikipedia:ジャン・ボダン)が初めて書いた
主権とは「恒久的・永続的な権威」
ある王様が持っているのではなく借りているもの。個人的所有物ではなく国民すべてにあるものを集約・管理しているだけと考えた
この考え方が今日の民主主義の起源になっているといっても過言ではない
王様や法王は神ではない、預かっているのだということになる。この点で画期的だった
やがてこの考えがフランス革命、アメリカ独立につながる

日本憲法では主権在民。国会では国民の代表(主権を集約した人たち)が法律を作っている
主権は常に国民にある(べき)

では、主権と文化はどう結びつくのか?
人には将来に、次世代に残したい大切なものがある=文化的なもの

価値観が変われば正義も変わり、法律も時代によって変わる
アートや文学の解釈のしかたも変遷する。その土壌となるものが文化である
アートや文学を遺産として引き継いでいくとき、旧世代とまったく同じ解釈をするのではなく文化的価値観によって左右される

現代の日本社会がそうであるように、先住民族の社会も同じ。かけ離れているものではない
彼らも残していきたいアートのやりかたを残していっている。こうやりなさい、と言われてやるものではない
この内から生まれる力が「文化的主権」

うーむ。このメモが話の本質を捉えているかどうか不安。聴いているときはわかった! と思ったんだけどなぁ。

物語形式(ナラティブ・フォーム)の豊かさ

「物語形式」で、ストーリー仕立てで見せることで相手に意味豊かに伝えていくことの重要さ
先住民族はそれを何千年と積み上げてきた

が、私たちの法律、歴史、宗教、文学、科学といった分野ではそれを分断してしまった
たとえば法律は「文書に残るもの(例:判決文)」「口頭で伝えるもの(例:国会審議)」「視覚に訴えるもの(例:法廷ドラマ)」などで理解が形成されるはずだが
また、「文学を文学としてしか理解できないこと」に問題はないか
分類をしたことででわかりやすくなったが、狭い意味でのみ理解されるようになっていないか
アートを広い視野から見ることができなくなっていないか

ナラティブ(物語、語り)については、なぜか最近多方面で目に付くし気になる。今度ちゃんと調べてみよう。

「ハイダのトーテムポール」が本来持つ意味、理解の貧困

ハイダ( カナダ基本情報 カナダの文化 ハイダ族 )のトーテムポールには家紋の役割があり、家の歴史が書いてある
一番下にビーバー、その上に人、鷲、人、カラス…
私たちは「なぜ家族の歴史にビーバーなどが?」と疑問を抱く
ハイダなど先住民族では、人と動物との関係がとても重要。動物は自分の親戚だと考える
人と動物を分けるのではなく、どういう関係にあるのかを考えている
クランの印に動物を使う。人それぞれがどの動物と関係あるのかが凝集されている

死者を葬るために作られたトーテムポールもある
作った人が息を吹き込む=命を吹き込む意味がある
トーテムポールにも命がある。死んでいく。死んだら新しいのを建てる
「死んでいく」トーテムポールを環境から切り離して博物館に大切に保管することの無理解・滑稽さ

文脈から切り離しているということか。 「生身」でなく「切り身」。アイヌのイウォルの話を思い出した。

また、ちょっと前に見たこれも引っかかる。

国立民族学博物館|イベント情報「ミンパク オッタ カムイノミ」
http://www.minpaku.ac.jp/museum/event/kamui10.html

民博に収蔵されている標本類はそれが作られた当初の目的とは違って収蔵庫のなかに保管されているものがすくなくありません。人間に顧みられることのない品物は、かえって人間に悪さをするという思想がアイヌの人びとにあります。
民博でのカムイノミ(ミンパク オッタ カムイノミ)は、そうした標本たちの霊をなぐさめるために挙行するものです。これによって、標本たちの安寧と安全とを祈念します。

続き。

ハイダの文化について話す人(ウォッチマン?)、トーキングスティックを持つ。立派な人である証しである

彼は自分の先祖から受け継いだ衣装をまとう。あしらわれた鷲の羽は自分のクランを表わす
また彼は何代前かの先祖から名前を受け継ぎ、死後、また名前は何世代か後の末裔に引き継がれる
死んだ人の名は、地域の協議によって誰に引き継がせるかが決まる

上述の「死は終わりではない」のあたりと関係か。文化を引き継がせる仕組みとしての名前の継承か。それもすぐに、ではないのはあえて揺れのある継承を許容するため?

家の中の柱には彫刻が施された板がいくつもある。民族の歴史、家族の歴史が彫られている
子どもたちが絵を見て、親たちが歴史を語り継ぐ
そういう営みを通じて「自分がなぜ、なんのために存在しているのか」がわかってくる
人間だけでなく周りの動物などについても理解する
われわれは、学校の授業で日本史を学ぶことで日本と自分がどう関わっているのかわかるだろうか?

先住民族を利用したマスコット、イヌイット・バービー、ダイムノベルと西部劇

大リーグや大学フットボールなどには先住民族を借用したマスコットがある
レッドスキンズ、インディアンズ、ブレーブス
イリノイ大学の「チーフ(チーフ・イライナイウェック4世)」
滑稽化されたキャラクターであり先住民族の踊りとは関係ない余興のダンスをしたりする
先住民族にとっては「正装」でありエンタメのためでない。また着られる人も限られている

2005年、Inuit Barbie(イヌイット・バービー)が問題になった
抗議を受けたメーカー側の主張は「美しく描いているからいいじゃないか」
先住民は「お金儲けにすることが許せない」
先住民族のデザイン、伝統的なものには家族や民族などに所有権がある。文化的占有という
一方裁判では知的所有権や商標の問題として扱われるが、これは商業的な活動に使うものに対する保護
先住民族のデザインはお金にするものではない。既存の法律では金銭的損害を証明できない

人気を博したダイムノベル(低俗雑誌に載る物語)「Buffalo Bill(バッファロー・ビル)」があった
それを元に、劇団が全米各地を巡り、西部劇の原型的な演劇をした
白人が主人公の英雄物であり、敵役としては先住民族が雇われた
カウボーイたちが勝ったので現在のアメリカがあるよ、という歴史を演じた

これはアメリカ人の大衆文化に浸透していく
映画の時代になるとジョン・フォードが西部劇映画を撮り、広めた

こういう筋立ては今も映画にも息づいている。なかなか消し去ることはできない
主人公は庶民出身、身体的な能力は高い
先住民族の領域に入り、お姫様的存在の女性と恋に落ちる
最初はあまり信用されないが、彼がピンチで力を見せて信頼を勝ち取る
2人の仲は最終的には悲劇に終わる。彼は元の世界に戻っていく

「ラスト・サムライ」や「アバター」を、この筋立てを意識して観ると…

文化や伝統、ホリスティックな世界観を理解するためには

現代人にとって文化や伝統とは?
(環境全体をではなく)「分類」という考え。コレクター、博物誌、多くの種類を集めていこうという指向で解釈しようとする
これがあるために先住民族のホリスティックな世界観を理解できない
「知の束縛(分類を主とした学問)」があるので先住民族のアートの価値観を理解できない
これはアートだ、曲線がきれいだ、だけではなく歴史が描かれているのだと捉えること
物語の再生をしようとすること

フィンランドの先住民族サーミの女性が出てくる映画「ククーシュカ」を観たが、監督はこんなことを言っていたとか。

『ククーシュカ』-コトバを解体する希望: 変身のための起源論
http://yumiki.cocolog-nifty.com/station/2006/04/post_80a6.html

「私自身は、アンニが人間の価値観を体現した人だと考えています。彼女の暮らしている状況では、他の生き方をしていたら生き残れない。知識ばかり身につけてしまった人には、世界をありのままに知覚することができない。アンニにとっての真実とは、愛とか死とか誕生とか子供などなんです。…戦争などという大人のばかげたゲームをするのは、他人の生命を奪えば自分は長らえることができるなどと思い込んでいる人間だけだ、というメッセージをアンニの台詞に込めたつもりです」

あー、豊かだね。

自分がいるところはどこか、今いる地域の文化はどんなものか、から入っていくこと
「この世界は先住民族の目から見れば違う」とわかることが重要。価値観がいろいろあると知ること

多様性があることは人類にとって重要である
多様性をつくることは、市民それぞれが力を持つこと
単一なら上から支配することは簡単
「文化的主権」を維持するとは、自分で調べ、考え、意見をつくっていくこと

カナダの先住民と付き合ってきたが、彼らは強い。自分の体を張って自分の文化を守ろうとする
国に対して「重要な文化なので守ってください」という姿勢ではない

この言葉は降ってくるなぁ。文化と多様性と主権(エンパワーメント)はつながっているのだ、と。
地域の力がないため、市民に力がないために起こってしまうことがある。

(眠いので終わり)

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