“ときどき異民族”の人(首都圏で生きるアイヌの人)とどう接するのか

Posted on 2010年11月7日. Filed under: 未分類 |

「アイヌ民族の文化と歴史をふりかえる」講座、4回めは「首都圏に暮らすアイヌの人」の話だった。講師は「首都圏に生きるアイヌ民族―「対話」の地平から」という著作がある関口由彦さん(成城大学非常勤講師)。

関口さんがなぜこのテーマに取り組むことになったのかという話が魅力的だった(講義の最後の方で話されたもの)。

専攻している文化人類学では研究する場所はホーム(居住地)から遠いほどいい、違った文化があるからといわれている。
東京の板橋に育った自分は、北海道のアイヌ人について研究しようと思い、そのとっかかりとして旅費稼ぎのバイトも兼ねて「レラ・チセ」(2009年まで中野にあったアイヌ料理店)で働いてみた。
そこで働くアイヌの人に接して認識が変わった。
異文化は遠い土地にあると思っていたが、中野のアルバイト先が異文化だった。そして、東京に生きるアイヌの人たちのアイデンティティのまとまりのなさ、しなやかさ、したたかさを見た。
自分を振り返ってみると、その曲がりくねりは自分も持つものだという共感を抱いた。この、なんともいわくいいがたい隣人を相手にしようと考えた。

今のアイヌの人ってどんな感じ?

今のアイヌってどんな人たちなのか。資料として配られた「2008年 北海道アイヌ民族生活実態調査報告書」(前にニュース記事を見た記憶があった)の抄録によると、

  • 自分がアイヌであることを「まったく意識しない」人が48%、30代以下に限ると66.8%
  • 今後「特に民族は意識せずに暮らしたい」が74.3%

と、北海道内のアイヌの人ですら多くは民族意識が希薄らしい。(その一方で報告書には就業形態、年収、生活保護の受給率など一般の道民と比較しての生活水準の低さを示す指標も多数あるが、とりあえず先へ進もう)

首都圏に生きるアイヌの人の実態は、東京都が行った調査 「東京在住ウタリ実態報告書」(1989年)が最新だという(これ以前の74年にも行われ、2010年現在、新たな調査がアイヌウタリ連絡会への委託で進行中)。この89年の調査によると─。

  • 都内にいるアイヌの人は推定2,700人(知り合いの知り合いを辿る方式で把握できた人数なので実際には5000人以上?)
  • 上京時期は60年代の高度成長期に集団就職で、が多い
  • 北海道を離れた理由の2番めは「差別・人間関係上の理由」
  • 借家率、87% (一般都民55%)
  • 生活保護率、2.3% (都民1.6%)
  • 学歴、小中学校卒業者が66% (都民20%)
  • 零細規模事業所への就業率、65%(都民48%)
  • 就職方法、縁故が60%
  • 差別を受けた経験がある 72% (72年調査では83%。改善はしている)


首都圏のアイヌの人たちのこれまで

(以下、講義や資料の内容から興味を持った点を抜粋したもの)

  • 1964年、「ペウレ・ウタリ(若い仲間)の会」結成
    阿寒湖のアイヌコタン(集落)で出会った人たちの結びつきから出発。最初は親睦を深めることを重視していたが、やがて社会的使命の自覚へ
  • 1972年、「東京ウタリ会」結成の呼びかけ
  • 1974年「アイヌ民族文化・芸能の夕べ」開催(新宿)
    アイヌ民族のウポポ(歌)とリムセ(舞踊)の紹介がはじまる
  • 1977年、都立武蔵野自然公園でイチャルパ(先祖供養)
  • 1980年、東京ウタリ会の発展として「関東ウタリ会」設立
    活動の目的として「民族としての権利の確立と生活の安定、社会的地位の向上をめざす」と明確に謳う
  • 1983年、「アイヌ民族の今を考えるレラ(風)の会」(91年、「レラの会」に改称)
    社会運動よりもアイヌ文化の継承・復興を重視。やがて東京にアイヌ料理店の設立をめざすように
  • 1992年「アイヌ新法早期制定・東京アピール」(北海道ウタリ協会、関東ウタリ会、レラの会共催)
    東京ではじめてアイヌ民族によるデモ行進が実施される
  • 1994年、アイヌ料理店「レラ・チセ(風の家)」開店(2009年閉店)
  • 1997年、「アイヌ文化交流センター」開設(財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構による)
    アイヌ文化交流センターは東京の八重洲にある。「アイヌ文化振興法」のもと開設されたが、そもそもアイヌ各団体は同法を不十分なものと考えている。アイヌ抑圧に対する「国家の責任」に基づく賠償や生活向上のための施策がなく(北海道には「ウタリ福祉政策」があるが道外のアイヌには無関係)、文化振興のみに偏っているため。「東京の八重洲口に「アイヌ文化交流センター」っていう立派なものができましたけれど、私が知っているアイヌで、こういうところに来られる人ばっかりじゃないんです」(首都圏に住むアイヌの人)
  • 2003年、東京イチャルパ (東京、芝公園内「開拓使仮学校跡」記念碑前)
    以後、毎年開催されている(東京イチャルパ)。この場所には、「札幌農学校」(クラーク博士で有名なあれ)の前身が試験的に開設され、「北海道土人教育所」も併設されていた。アイヌ人が強制的に「留学」させられていたという。

身近にいるアイヌの人たちに接するためのヒント

「シャモ(和人に対する蔑称)」でなく「シサム(隣人)」として「今の」アイヌの人に接するには、という点で関口さんが挙げたポイント。

  • 「アイヌに同情することで善人としての存在をアピールする場を見つけたと考えて喜んでいるシャモ(和人)が多い。アイヌの普通の生活の話は退屈そうな顔をし、差別話になると生き生きとして身を乗り出す」(あるアイヌの人)

(上述のように)特に強い民族意識もない、はっきりとした差別を受けた記憶もない、文化継承を気負ってもいない、つまり「被害者」「弱者」という型にはまらないアイヌの人たちも多い。が、型通りの見方を押しつけたがる和人はそこを見ようとしないという話。(が、前の回では釧路で育った方の「犬!」と罵られるなどの悲惨ないじめ体験の話を聞いた。経験もそれぞれだということには注意しなければいけないと思う)

  • 「“プロフェッショナルアイヌ”になろうとしたけど難しかった。アイヌ文化の普及・啓発にはなるかもしれないけど、私には何も残らないって思うようになってしまった」(あるアイヌの人)

アイヌの人だからといって、文化や伝統のことで精力的に活動するばかりではない。

  • 「“多文化共生”イベントは、マジョリティ側が企画・開催を取り仕切っている。その場限り、「はじめと終わりがある」多文化共生に過ぎない」(ある日系ブラジル人女性)

うーん難しい。確かに1回のイベントで世の中は変わらない。また、いろんな民族を単に見世物として消費しているだけ、その先には何もないといった憤りもあるのかもしれない。
以下、雑感。

アイヌの人へのインタビューの抄録で、自らがアイヌであることの根拠は「文化」ではなく「血」だと考えていた人の言葉があった。その人は、系図を遡って和人との交婚があったのを見つけ、自分がアイヌである証はないと考えた。これは(当たり前だが)アイヌの人だってアイヌ人たるゆえん(たとえば和人がよく発する「純血なアイヌは、もういないのですか?」といった質問への答え)をきちんとわかっている人ばかりではない、ということだ。抑圧や差別を通じてアイヌ人であることを「思い知らされた」人たちでさえこうなんだ。
ぼくも含め多くの日本人は、こういうアイデンティティ上の迷いを一度も持つことがない。ただ、帰国子女や混血の人など、周りをつぶさに見ればこういう迷いを経験したことがある人は結構いるはずなんだけど。

また、「なんで踊りの練習をするのかと深くは考えたことはなかったが、人前でやるようになってから、自分はアイヌだって理解できてきた」というアイヌの人の言葉が示唆的だと思った。民族の「文化」というのは、同じ文化を持つ人たちでの集住や教育など継承するための仕組みがなければ、人の価値観を形成する多くのもの同様に選ぶことできるもの、ぐらいでしかないのだ。

関口さんのレジュメには「アイヌ民族の抑圧の歴史を認識しつつ、彼らが運動の場を離れれば、自分たちと同じ「普通の人間」であることを認めなければならない」とあった。

「普通の人間」について自分の言葉でまとめてみるなら、

「自分とまったく違った他者はいない。習慣や価値観のグラデーションの中で共通する部分(「普通」だと見なすことができるところ)がある。また、お前が持つエゴとやさしさ、せっかちなところとのんびりしたところなど矛盾した点は、お前がマイノリティと見なす人の中にもあると想像すべきだ」

とか。

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