愛猫あーこ:猫と生きること、その最後に付き合うこと

Posted on 2010年9月20日. Filed under: cat | タグ: , |


愛猫あーちゃん – a set on Flickr
Originally uploaded by jetalone

2010年9月15日に逝った猫、あーこのいろいろをまとめておく。

あーちゃんはこんな猫だった

あーちゃんの毛色はグレー。首から胸、お腹、足などは栗色がかっていて、その上に灰トラ柄。尻尾は短いカギ型。
ウチに来たのは1998年ぐらい。キジトラ猫のやまちゃんと一緒にカゴに入ってきた。そのときはもう成猫だったので正確な年齢はわからない。病院では便宜的に「12歳」と言っていたけど14歳ぐらいだったかも。
来て数日はかまってほしい眼をして鳴きながら、撫でようとすると後ずさりするシャイさだった。
来た当初は「ハー」というかすれ声しか出なかったが、馴れてくるとハスキーな声でよく鳴く子になった。

あーちゃんは美しくてプライドが高く、エサは一番いい場所で食べる。
ケンカも強かった。手足が大ぶりでパンチが速い。あとから来た黒猫こまる(崩壊した猫屋敷出身。参考:「田舎猫SOS」)は多頭飼いの家で上位猫だったが、負けることなくNo.1の地位を守った。
棒で遊ぶのが好きなちっこを相手にしていると、嫉妬したあーこが大抵邪魔をする。で、「素早く動く棒を捕まえられるか」というゲームでは、見えないぐらい速い手でいつもぼくを負かした。
甘えたがりで、ぼくとYの会話が盛り上がっていると「私? 私?」とばかりにどちらかの膝に乗ってくる。

美しく強かったあーこが倒れ、元気なくうつろな目をしている姿を見るのは本当にショックだった。

猫は嘆かない、シンプルに強い

脳腫瘍で倒れ、二度と起き上がれないように見えたあーこは何度か回復し歩き出した。下肢が麻痺すれば上半身だけで這い、後ろ足がうまく動かなければ何度もコケながらも歩いた。


人間のように自分の境遇に打ちひしがれたりせず、ただやれることをやるという姿を、強いなと思った。
このまま痩せ衰えていく一方なら安楽死も──と考えたこともあった。が、迷いもなく生きようとするあーこの姿を見て、(倫理云々とは関係なく)そういう選択はない、あり得ないと思った。

他の猫たちのやさしい無関心

あーちゃんは6匹の猫の中で一番強く、ボス的な猫だった。
彼女の体力が衰えれば下剋上が起き、いじめなどで惨めな目に遭わないかと心配したのだが、そんなことは起きなかった。他の猫たちは、変化したあーこにごく普通に接していた。

家猫にとっては家の中が世界

あーこに付き添っていて強く感じたことがある。家猫にとっては家の中がすべて、ということだ。

寝たきりでぼーっとした状態でもあーこは、エサを準備する音、他の猫たちの動く音や鳴き声、三毛猫おちゃか(ヒステリーおばさんなので隔離中)の部屋の戸の音、好きなネズミのおもちゃの音、外へのドアが開く音などには耳を動かす。周りの音全てに反応するのではなく、自分にとって意味のある音を聞き分けているのだとよくわかった。これらがあーこが関心を持ったことであり、つまり日常。家は猫の「世界」なんだな、と思った。

猫たちは家の中で食べ、遊び、おしっこやうんちをし、寝て、機嫌がよくなったり悪くなったりする。そして一生を終える。
あーこにとってこの家は快適な世界だったかな、と考える。そして残った猫たちにとってはどうなのかな、とも。

愛猫の最期にどう付き合ってやるか

2カ月半、通院の時間とお金、給餌や薬の手間、時には夜中までの看病など負担は少なくなかった。で、これらの「あーこを生き長らえさせるためにやること」と他の重要なことを天秤にかけ、やがてバランスを前者に大きく傾かせて最期を迎えた。そのせいで仕事にも人間関係にも影響が出た。

「自分はあーこという猫をどれだけ大切だと思うか」を考えながら日々色んな判断をしてきたが、最後にはこんな考えを固めていた。
『病気で手がかかる愛猫の世話をどうするか』は、猫との生活をどう考えるかを日々試すことだし、『愛猫の最期にどれだけコミットするか』は、その猫が自分にとってどれだけ重い存在なのか最終的な結論を出すことなんだ」と。

ぼくはあーちゃんが自分にとってどれだけかけがえのない存在かを考え、その最期にとことん付き合った。
結果は理不尽だが、自分がやったことに悔いはない。

生きるのはさまようこと、死ぬのは安定すること

あーちゃんの火葬が終わり、お骨上げをした。骨太だったあーちゃんらしく骨はよく残っていた。ひとつひとつ取り上げて骨壷に収めていると、不思議なことに少し明るい気分になった。「帰ってきた。これで安定したなぁ」という、安心感みたいなものが湧いてきたのだ。

思えば、生きていることって不安定だ。この2ヵ月半、あーこのそばで目覚めるたび、息をしているか、苦しそうにしてないかをまず確かめる毎日だった。風に揺らぐ火のように不安定な命に見えた。だけど火葬されて骨になった今、もうどこかに行ってしまう心配はない。最後の到着地はぼくのそば。もう動かないけど、あーこはここにある、そういう安堵。

もちろん5日たった今でも、死んでしまったことの驚き、怒り、そして寂しさを強く感じることもある。が、そんなときでもあーこが手元に「ある」ことで、少し安心できるんだ。

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月並みなことしか言えませんが、最期のときを、ともに過ごせて、あーちゃんも中野さんも、幸せだったと思います。あーちゃんの、ご冥福をお祈り申し上げます。


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