南相馬にまたお手伝いに行ってきた (2012年最初の東北被災地ボランティア)
2012年最初の被災地ボランティアはどこにしようか。
いくつか候補先は頭に浮かんだけど、去年の“ボランティア納め”としてクリスマス時期に行き、鮮烈な印象を受けた福島県の南相馬市にソロで行ってみることにした。1月13日(金)の夜に出発、14日(土)と15日(日)にお手伝いをしてきた。
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東京駅八重洲口で高速バス「キラキラ号」に乗車。今回はこのバスで仙台駅前まで行く(長距離バスを絡めて南相馬へ行くなら福島駅前までが普通だが、それだと翌朝8時30分のボラセン受付に間に合わないため)。
ボラバスに乗り慣れていると、普通の夜行バスって殺伐とした雰囲気だよなぁ、と感じる。皆眠いからかな。
安達太良SA、雪。積雪量はそんなでもないけど、何度も降って踏み固められたような感じ。夜中の3時に雪合戦してる若者のバカ者を横目に見て、さっさとトイレや軽食購入を済ませる。
この日、日中は六本木で行われた「東北復興緊急ギャザリング」という1日イベントを聴きに行った。
午後のトークセッションでモデレーターをやった糸井重里さんのこんなフレーズをバスの中で反芻する。
「
ぼくはいい加減な人間です。
いい加減な人間が(被災地の復興のために)付き合っていく方法を考えないと。人間はいい加減な存在、同時に見くびったもんじゃない、という部分もある。
道徳、倫理とは違う部分で付き合っていく方法を考えていきましょう。
たとえば昔のペンパル。第三世界の人とつながるいい仕組みだった。
(被災地の復興支援は)ボランティアに行く、買い物をする、以外のアイディアが重要なステージに入った。
「自分はいい加減だから忘れちゃう」をベースに考えていかないと絶対そう(道徳や倫理頼りに)なっちゃう。クリエイティブが足されない限り続いていかない。心が大事だとか言いすぎるのはやめようよ、と言いたい。
たとえばただ被災地を見てもらうために「ウェルカム野次馬キャンペーン」とかいいじゃない。
5年10年の復興だし、被災地も、支援する側もお互いに教室だと思っている。
」
幸い、ぼくは今年からはボラバスでのVC経由の作業一辺倒ではない自由を手に入れた。
一番いいのは、応援したい地域に友だちを作ることなんだろうなぁ。そうすれば忘れない…。
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バスは定刻の5時10分よりやや前に仙台駅近くに着いた。5時29分の常磐線始発に乗る必要があったので、雪の影響などで遅れたら…とドキドキしてたけど、さすがの運行だ。
夜明け前の仙台駅で常磐線亘理行きを待つ。駅は想像していたより小さかった。

2012年1月現在、常磐線の亘理駅から相馬駅までは震災被害のせいで不通となっている。そこで亘理駅で代行バスに乗り換える。駅で買ったキップは、降りるときにバス前部のボックスに入れる仕組みらしい。
真っ暗だった空がようやくほの明るくなってきた。
代行バスが新地のあたりを走っているとき見た朝日がきれいだった。前回も思ったけど、福島の浜通りの空はやたらときれいだなぁ。
相馬駅で原ノ町駅行き電車を待つ。
原ノ町駅に到着したのが7時59分。急いで歩いて20分ほどの仲町ボランティア活動センターをめざす。
途中、「休業」や「閉店」の貼り紙を出している店がいくつか目に入った。原発災害の影響で街の暮らしが激変してしまったことと、当然無関係ではないだろう。
仲町センターは出発前の受付で賑わっていた。今日の活動人数は15人ほど、現場は3つ。
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ぼくは5人チーム(男3人女2人)に入り、原町区泉の個人宅の瓦礫片付けとなった。
近隣の家は多くが取り壊され、隣の家もまさに取り壊し中。このお宅はほんの少し高台だったため、津波での冠水は一階部分の1.5mほどの高さまで。大きな瓦礫が飛び込むなどの被害はなく家はしっかりしている。Sさんの家族は皆避難し、一人で家を守るために残っているという。
取りかかる場所の優先度や捨てるか残すかの判断をSさんに仰ぎながら、作業を進めていく。終始ゆったりしたペースで進む。Sさんが一度話しはじめるとなかなか止まらないからだ。
60代の男性であるSさん以外、ご家族は福島県内をはじめ各地に避難中。お孫さんたちは東京都港区に避難中だという。新学期に合わせて戻るかどうか思案中だが、そもそも同年代の子たちはほとんどよそへ避難してしまい遊び相手もいない。戻ってこさせずに東京の学校へ行かせようか…と話をしている最中だ。
大きな家に今は一人で住むSさんは、平日は地域の「復興隊」として畑の瓦礫を取ったり、草を刈ったりしている。刈った草は畑の方々に山積みされているが、やがてキューブ状に固める。放射能汚染でどこにも捨てられないので、市が処分してくれるのを待っているという。
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昼食。「とんかつ大甕(おおみか)」でまたもや腹一杯食べ、再びSさん宅に戻る。
Sさんはぼくらが話し相手になることがとてもうれしそうな様子だったので、休憩は常に長めに取り、またSさんが話を続けたそうなときは手を止めて話を聴くことにした(ぼくらは瓦礫片付けを依頼されてきたのであり抵抗もあったのだが、聴くべきだと思った)。歌の上手な方で、突如カラオケセットを取り出して歌を、それも有名な演歌の歌詞を替えて作った“南相馬の復興を祈る歌”を披露してくれた。
家の前にベンチを置いてくれ、寂しいから通る人たちを眺めたい、というので(そんなに人通りが多いとは思えなかったが)門のアーチの横を整地してベンチを据えると、うれしそうに早速座っていた。15時を過ぎた頃、ベンチに座ったSさんを囲んで20分ほどいろいろな話をした。
「寂しい」と初対面のぼくらに向かって話さざるをえない状況にいるSさんに、心が痛んだ。
敷地内にあった桜の木。桜が咲くころに、また来てみたいなぁ。
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お手伝いが終わり、仲町センターへ戻って片付け・報告を終えて銭湯(湯多利亭もりのゆ)へ。
2回めの南相馬でわかってきたけど、こっちは年配の人でもあんまり長風呂しない感じだ。
風呂上がり、コーヒー牛乳飲みながらテレビ見てると、テレビで政府広報。ごく普通に、まるで体重計の使い方を説明するようなやわらかさでガイガーカウンターの使い方を解説している。これ、東京でもやってるのかな…。
風呂の後、18時を過ぎると弁当や総菜が半額になるというイオンスーパーセンターで買い出し後、センターに戻った。
ビールを飲みながらボラ参加者とさまざまな話をする。
今日一緒に活動したH君はバックパッカーだというところまでは昼に聞いていたけど、さらに詳しく聞くとユニークな経歴が露わになった。美大に入って彫刻を専攻したが、途中で陶芸に目覚めた。ちょっと前まで韓国からロンドンまで数カ月かけてバックパッカーとして旅をしていたが、実は旅のテーマは陶芸の産地を巡ることだったという。この地域にも「相馬焼」というのがあると教えてくれた。彼は今東京の西奥、御岳山の近くに陶芸の窯をつくっているとか。
会津の出身で、ボランティアは生まれて初めてだ。会津の人は正月に雑煮は食べず「こづゆ」というのを食べるらしい。(こづゆとは、こないだ東京にできた「復興支援酒場」で出会うことになった)。
写真は福島名物の「イカにんじん」だ。
南相馬名物の「よつわり」というパン。原町一小の前にある「パルティール」(奥)と「原町製パン」のものだ。
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二日めのお手伝い先は原町区萱浜(かいはま)。
お手伝い現場に向かう途中、広大な荒地に花束が捧げられた場所がぽつぽつとあった。土台だけになった家もあるが、この辺りはもう基礎さえ撤去された家も多いんだとか。太平洋がきれいに見える──といっても、それは津波のせいで幅50mはあったという防風林がほぼ消失してしまったためらしい。
お手伝い場所はIさんという老年男性の私有地だ。墓地の後背地にあたる。
片付け具合は6~7割といった感じだが、墓地から流れた墓石類や大人数人でも運べないような鉄筋コンクリートの塊もある。墓石は磨き上げられた新しいものもあれば、第二次世界大戦で戦死された方、明治と刻まれたものなどもあった。
ぼくは見に行ってないが、海側の墓地には3月11日に亡くなった方を弔う真新しいお墓もあったそうだ。
一分間の黙とうをして、作業を始める。
今日のこの現場のチームは7人。ぼくはリーダーを命じられたが、今日も昨日のようにこの土地のオーナーが顔を出され、やがてぼくら以上に巧みにロープをかけて軽トラで墓石を動かすなど活躍しはじめた。そんなこともあり、Iさんとの会話を挟みながら、時間通りの休憩はあまり取らずに作業を進めた。
Iさんはぼくらと話し共に働くのが楽しい様子で、南相馬の昔話をいろいろしてくれた。
若い頃は阿武隈の山に入って伐採した木材をワイヤーにかけて運ぶ仕事をしたこと。木造船の竜骨にあたる長いカシの木を切り出したこと。
化学工場ができるまではこのあたりの浜には魚が一杯いて、漁師がおーいと声をかけるのを聞いて地引き網の魚をお裾分けしてもらいに行ったこと。
台風の後はカジメ(コンブの一種)が浜に沢山上がるので、牛を引いて取りに行き、それを味噌漬けにして食べること。味噌漬けはとてもおいしくて、あとはおにぎりさえあれば満足だったこと。
素人のぼくらが腰を痛めてしまうような無茶な動きで墓石やコンクリートを扱うのを見ていられないらしく、度々声をかけてくれた。ご自身でうまくロープをかけ、集積場所まで軽トラで引っ張り、うまくいくと皆で喜ぶ、ということにニコニコされていた。
その中にいながら、1日めといい2日めといい瓦礫片付けなんか方便にすぎず、ただ津波や原発災害で多くのものを失って気落ちしている人と共に作業をし、話を聞くことに強い意味があるんだろう、と思っていた。
昼食は「道の駅 南相馬」でみそタンメン。おいしい。相馬の味噌を使った料理は全部うまいんだろう。
昼食後、作業再開。
大きな瓦礫はIさんと3~4人に任せ、ぼくはいかにも荒涼としたデコボコなこの場所を少しでも見栄えがいい状態にしようと思い立ち、ひたすらクワで地面をすき瓦礫を拾っていった。が、ここは被災後瓦礫混じりの土砂が積み上げられた場所らしく掘っても掘っても大きな石、瓦、木材などが出てくる。
少しもセーブせずに屋外作業をする2日目であり、上腕、背中、腰あたりが悲鳴をあげていた。が、今日知りあったばかりのIさんだが、彼が再びここを眺めたとき少しでも心穏やかでいられるように、ここを平らにするんだ、均して見栄え良くするんだ、と気持ちを高めながら作業を続けた。
帰路、センター長の松本さんが湾岸部を原町火力発電所の方まで走らせ、被災の様子と、これまでのお手伝い箇所などを説明してくれた。海沿いには分別された大きな瓦礫の山々や、重機の力で更地に戻されつつある区域、やや高台部分には形は残るものの一階部分がくり抜かれ生活の気配がない家々などがあった。
墓地を見ると必ず車を停め(墓地の片付けは松本さんチームが多数やってきたお手伝いで、地域の人に特に感謝されたそうだ)、塞がった側溝を見ると車を寄せて丹念にチェックする松本さんを、クレイジーだと思った(賛辞です)。
この日は、初デートが東京発の夜間長距離ドライブで目的地はここ南相馬、やったことは今日の萱浜での瓦礫撤去のボランティア…という不思議かつハードコアなカップルと一緒に作業したんだけど、その話はまた余力があるときに。
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センターへ戻って急いで銭湯へ行き、パッキングをして仲町センターを後にする。またきっとお手伝いに来よう。
前回もたまたま活動日程が一緒だったN子さんと、南相馬市役所近くのバス停で福島行きのバスを待つ。
後ろで待っていた男性と少し話をした。東京から日帰りで、原町の教会に併設されている幼稚園の子供たちの様子を見にきたという。たぶん何らかの支援活動をしている人だろう。80人いた園児たちのうち、今では13人だけが戻ってきているとか。戻った子どもの親は、経済的にあまり裕福でなくやむをえず戻ってきた人も少なくないという。
週末のたった2日間だけ、しかも人でなく瓦礫相手の仕事のお手伝いに来ているぼくのような人間でさえ、南相馬に来ると道端の石ころを見かけるようにこういう話に出会ってしまう。話を聞きながら、「ぼくは一体どうすればいいですか?」と心中あたふたする思いだった。
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福島駅から19時48分発のMaxやまびこに乗り、東京へ。
念のため、今回は前回のようにお土産をカラスに食べられることはなく、無事持ち帰ったことをお知らせしておきます。
また、今回ぼくが撮った写真はFlickrにアップしてあります。興味があればご覧ください。
福島県南相馬市で震災ボランティア – a set on Flickr
http://www.flickr.com/photos/jetalone/sets/72157628908870207/detail/



























お疲れ様でした。
南相馬の方のお話をゆっくり聞けるような雰囲気で仕事したいです。
今度の金曜日、南相馬市に行ってきます。
道の駅で、みそタンメン食べようと思います。おいしそう。
marysha_F
2012年1月25日
ナ力ノさんお久し振りです.もう見れないかと思いました.あの赤いキラキラバスは樂しいあかしですね..これからも宜しくお願い致します.被災地の消息を詳しく知るにはナ力ノさんのブ口グだけ賴りにしてます..有難度うございました.寒いからくれぐれもお大事にね…
akitsai
2012年1月30日
marysha_Fさん、
そちらもぜひがんばってください。
ちなみに道の駅に行けばわかるけど、タンメンの他に手づくりメンチカツも人気メニューらしく、おいしそうでした。(^q^)
nakano
2012年1月30日
akitsaiさん、
コメントありがとうございます。まだまだ行きますよ!お手伝いのニーズがある限り。
先週末も宮城県の牡鹿半島に行ってきたばかりです。またブログでご報告しますね。
nakano
2012年1月30日