南相馬での12月23日から12月25日、そして2011年最後の震災ボランティア
2011年12月23日(金)から25日(日)まで、福島県南相馬市でのボランティアの記録。
今年ぼくがお手伝いに行った場所は岩手県の大船渡市、陸前高田市。宮城県は気仙沼市、南三陸市、牡鹿半島(石巻市)、東松島市だ。2011年最後のお手伝いは、ボラバス仲間であるJiroさんからもらった情報に従って初めて福島県に足を運んでみることにした。
2011年12月23日
往路は、年末年始だけ特別な時刻表で運行される高速バス「相馬ライナー」で行くことにした。
10時30分ごろ、東京駅丸の内口の新丸ビル脇の行幸通りは皇居方面へ向かう人、戻ってくる人で賑わっていた。ビラを配る人もいて、プラカードには「文化の日を明治の日に改めましょう」「女性宮家創設反対」などと書かれていた。
東京の中でも特に洗練された“ザ・丸の内”というようなエリアから、大地震と原発事故という二重の災いに苦しむ相馬市行きのバスが出る。少し奇妙な感じを抱きながらバスの出発を待った。
バスの乗車率は6割ほど。一人客、若い男性がやや多い。乗り慣れたボランティアバスと違って全員が大荷物というわけではなくトランクルームは結構空いていた(乗車前に大きなリュックを預けると「ボランティアですか?」と聞かれた)。
快晴の東北自動車道。
iPadで福島第一原発についてのウェブページや自治体の除染マニュアルを読み、少し覚悟めいたものをする。別のタブでは青空文庫の「クリスマス・カロル」(ディケンズ)のページを開き、交互に拾い読みした。「福島のために今まで何もしてこなかった」という自罰的な思いと、クリスマスという時期と、強欲なスクルージが改心する話を重ねる。
14時過ぎ、バスは二本松インターチェンジを降りた。
目の前を流れていくのは平和な田畑や端正な家並みだが、少し緊張しながら眺めていた。
国道を行くバスは、報道で名前をよく見聞きする飯舘村(いいたてむら)に入った。
道路沿いの家々のほぼ全ての窓はカーテンが閉まり、人の気配がない。
目に入った「除染モデル事業実施中」という看板。タイベック(化学防護服)を着た5~6人のグループが路地に入っていく姿も見え、ちょっと驚く。
後で南相馬で読んだ福島民報の中に、この活動についての記事があった(「除染モデル事業開始 JAEA 飯館で来月下旬まで」)。

南相馬市の原町区、原町区福祉会館の前でバスを降りる。ここには現在「南相馬市生活復興ボランティアセンター(原町支部)」が置かれている。その名前が示す通り(宮城などでも同様の流れがあるように)、センターの活動は初期の瓦礫撤去・泥出しなどの作業から、地域コミュニティづくりや生活支援に移っている。
一方、現在でも瓦礫片付けなどのニーズに対応する「仲町ボランティア活動センター」は、自転車で10分ほどの距離にある。
仲町は社会福祉協議会から委嘱された「災害復興支援ボランティアねっと」が運営するセンターで、何度か拠点を変えながらニーズの聞き取りやボランティアの派遣を行っている。無料の宿泊所も兼ねている。
今夜泊まるのは男性7人、女性2人。
ぼくが滞在した3日間、朝到着して作業に合流する人、半日だけ作業する人などめまぐるしく出入りがあったが、常時だいたい10人以下だった。
到着後、今日着いた男女4人で仲町から車で10分ほどの銭湯「湯多利亭」へ行く。
入浴後、Jiroさんと世間話をする受付の女性、それに加わった若い男性の話から、震災と原発事故に見舞われた南相馬の厳しい現実が次々と溢れ出した。
「震災直後は本当に物資がなくて困った。ヨークベニマルに二時間も並んで、買えたのは菓子パン一個だったり…」
「原発の爆発の音は海沿いの原町火力(発電所)の方まで聞こえたって話だ」
「原発事故で、ここら辺の人たちも八割ぐらいは避難した。東電が放射能についてちゃんと発表しなかったから、沢山の人が線量の高い福島の方に避難した。お金がなくて逃げられなかった人もいる」
「私の家は原発から32km。爆発直後はどんなに怖かったことか。一カ月も家にじっとしていた。でもいつまでも家にいても仕方ないと思って、今は働きはじめたけどね」
「避難して親戚のところに泊まっていた人にはお金(東電の補償)は出ない。旅館でないとダメだという話」
「娘は原町の病院に勤めていた。町の人が減って患者さんも減ったので職をなくしてしまった」
「この地区は(子どもたちの)学力が低い。中通り(福島市や郡山市)の方へ編入してもついていけない。それでまた帰ってきた人もいる」
「求人は一杯あるけど、みんな(失業)保険があるので働かない。何度か(支給期限が)延びて、また3月まで延びたけどこれ以上は延びないだろうね。アル中の人が増えた」
気構えもなく聴いた話の一つ一つの重さに、ショックを受けた。
釜めしが名物だというお店「花吹雪」で夕食。
食事後、支払い時の「年末はいつまで?」という他愛もない雑談がこんな話になった。
「年末は奈良へ行くんですよ。高齢の母がそこに避難しているので」
「南相馬の人の避難先は、それこそ札幌から石垣島まで全国なんです」
「原発事故が起きたとき、みんな西へ西へと逃げたから被爆しました。市民病院での(ホール)ボディカウンターでのチェックはまだ順番待ち。『日本はおかしいね』と福島ではみんな言ってますよ」
どんな相槌を打てばいいかわからなくて、立ち話をしながら目をやった壁に貼ってあったのは、こんなものだ。
「御注意ください!東京電力からの請求書類 日本弁護士連合会」
「福島県相馬市のみなさんへ 四国中央市愛媛県川之江小学校のせいとです…」
「南相馬市放射線量率測定マップ」
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児童館に戻り、センター長の松本さんが地図を使って明日の作業計画を説明するのを聞く。お手伝い先についてこんなに丁寧な説明を聞くのははじめてだった。思い入れが増してくる。
松本さんによれば、原町区での瓦礫撤去などのニーズはまだ終わっていない(ボランティアが足りずニーズを止めている)。鹿島区も本当は終わっていないが引き揚げとなった。小高区には来年4月以降、原発事故警戒区域が解除されれば入ることになるだろう(!)。その頃には発災から一年経っているが、状況は震災直後のままだろう──。
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22時。寝袋に入って今日見たもの、聞いたことを反芻する。
今日触れた断片だけでも、ここが岩手や宮城とはまったく違う状況にあることがわかった。復旧復興が遅れているんじゃない、まだ青写真さえ描けない。不安、不信、怒りが人々の間に遍在している。こんな地域が2011年の日本にあるんだ…。
2011年12月24日
朝、車で作業場所に向かう途中、原一小(原町第一小学校)の前にかかっていた横断幕。
「全国各地どこにいても 負けるな!がんばれ! 原一小けやきっ子 みんな元気です」。
原発事故の後、南相馬からは特に子どものいる家庭が沢山出て行ったことは知っていた。が、突然目に入った「全国各地どこにいても 負けるな!」というメッセージ、その背後にある悲痛な思いに打たれ、動揺してしまった。
常磐線の陸橋を超えるとロードサイド店が多く並ぶ地域がある。マクドナルドは閉店、モスバーガーは営業中。ガストは閉店、幸楽苑は営業中。しまむらは営業中、ゼビオは閉店。開いている店は半分ぐらい…。
このブログを書く前、12月28日付けの「南相馬市長から市民へのメッセージ」(YouTube)を観た。その中での桜井市長の説明によれば、人口7万人の南相馬市は原発事故直後に多くの人が避難したため1万人にまで減った。現在では徐々に戻ってきたが、それでも4万人だそうだ。
「ディアスポラ(離散した人々)」という言葉が頭に浮かんだ。沢山の人が去ったままで、街は冷え冷えしている。
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今日のお手伝い場所は、原町区雫(しどけ)字東坊志(あざとうぼうし)。
仲町センターから車で20分ほど、平坦で広い田園地帯に家が点在する地域だ。
東側の太平洋まで約200m。水平線を見渡すことができる。津波でほぼ跡形もないが、震災前は防砂林があったらしい。
また南方向は、市が公表しているマップ( 南相馬市:東日本大震災関連情報:20・30Kmの図面の公表について )によると福島第一原発から20km圏内の「警戒区域」まで500mもない。
この地区の放射線量については、9月・10月の調査でこんなデータが出ている。
原町区 空間線量率マップ(新潟大学による原町区内通学路放射線量率の測定結果)
http://www.city.minamisoma.lg.jp/mpsdata/web/5462/haramachiku.jpg
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3~4人ぐらいの3チームに分かれ、1チームは個人宅周りの細かい瓦礫の片づけ、1チームは畑に埋まった瓦礫取り、最後のチームは畑の脇の水路のようなくぼみに溜まった瓦礫掘り起こしにかかる(当初水路作りの予定だったが変更になった)。
ぼくは最後の4人チームに入り、レーキ(金属製の熊手みたいなもの)とスコップを使って水路に埋まった瓦礫を掘り出していく。
瓦、コンクリートの塊、壁や床の一部と思われる破片、化学肥料の袋など、結構大物が出てくる。表土は乾いていたが少し掘り起こすとヘドロが出はじめ、こりゃ今日は泥まみれだな…と覚悟した。
錆びたスケート靴が出てきた。震災後ずっと埋まっていたものだろうか。もうだいぶ慣れたけど、人の存在を感じさせるものが出るとやはり手が止まる。
大きな瓦礫の塊を引き剥がすと、その下から冬眠中のザリガニが何度か出てきた。ヘドロに足を取られ、転びそうになる。
4人で長い水路にかかったが、手を休める度に眺めると、上がった瓦礫は微々たる量でしかない。
ボラバス2台、最大76人のチームで作業した経験に比べれば本当にわずかだ。
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昼食は「とんかつ大甕(おおみか)」という店へ。ほっき飯や大きなトンカツが有名らしい。
店に入ると、強健そうなご主人や食事をしている男性たちが目に入る。失礼な感覚であることはわかっているのだが、警戒区域に近いところで普通に商売を営み食事をする人たちにちょっと驚きを感じてしまう。
昼食を終えて東坊志に戻り、少し海沿いまで歩いてみた。
墓地があり、墓石の多くは吹き飛んでいた。が、四散したと思われる墓石、燈籠、塔の一部は墓地の後方に整理され並べられている。仲町センターのボランティアがお手伝いしたもので、お墓にまつわるお手伝いは大変感謝されたそうだ。
午後は水路を切り上げ、畑の瓦礫取りチームに加わる。
レーキを使ってひたすら地面を均しては瓦礫を拾っていく作業なのだが、なかなかキツい。肩や二の腕がすぐに痺れ、息があがってしまう。
15時30分過ぎ、作業終了。6~7人がかかって終わったのは畑一枚の半分以下だった。
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仲町センターに戻り、今日帰る人を見送り、銭湯へ行く。
セブンイレブンで買ってきたショートケーキを皆で食べた。仲町ボランティア活動センターで、唯一のクリスマス・イブらしき出来事だった。
2011年12月25日
慣れない寝床と寒さのせいで、5時過ぎには目覚める。
夜明けの空は雲が低く垂れこめ、雪が少し降っていた。
朝食を食べながら、NHKのニュースで「宮城県亘理町で鮭漁が再開された」という明るい話題を見る。今は辛くても出口が見える話だ。一方、福島については「原発災害の加害者である東電が賠償スキームを決め、しかも書類が難解なのは問題だとして、双葉町が独自に賠償請求書類を作成・配布へ」というニュースが流れた。
帰ったら、福島の話をもっと注意して追いかけようと思う。
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今日も、昨日に続いて原町区雫での作業を続ける。
午前、ぼくは3人チームで個人宅の瓦礫片づけ。海沿いはほぼ快晴で活発に動くと汗ばむほどだ。
大粒の雪が勢いよく降りはじめた。この後も降ったりやんだりが続く。
休憩どき。
遠くの方から犬が走ってくるのが見えた。古びた赤い首輪を付けているがリードはない。少し痩せている。
声をかけると立ち止まり、こちらを見た。生憎食べ物を持っていない。距離を縮めながら、しばらく目線でのコミュニケーションを続けた。が、やがてゆっくりと、そのうち決然とした様子で海沿いの道路を駆けだしていった。向かった先は警戒区域だ。
どこから来てどこへ行くのか。誰を探しているんだろう。
昼食は、自家用車で来ていたSさんに同乗させていただき「道の駅南相馬」へ。昼食時のレストランは、年配の方を中心にほぼ満席だった。
南相馬で沢山お金を使おうと、道の駅でがんばってお土産を買った。
が、午後の作業中リュックのそばに置いていたそれらは、箱菓子一つを残してほぼ全部カラスのおやつになっていた…。
さて、腹ごしらえも済み、午後の作業再開。
畑の脇の、車一台ほどの幅の道を支える斜面が崩落し、その下の側溝に落ちかかっている。その部分を補強するための土のう作り・土のう積みだ。
5月から始めた被災地ボランティアの年末の締めが、花形(?)ともいえる「土のう作り」。相手に取って不足はない!などと思いながら取りかかる。
が、作業は思うように進まない。南相馬には土のうスタンドの類がなくバケツで代用するため、適当な量の土を入れるには一度バケツから出して継ぎ足す必要があるのだ。大粒の雪が降りはじめた。ハードな作業なので寒さは感じない。土のう作りチームは5人。少人数のせいもあり、バス一台分のチームと一緒に作業していたときに味わう疾走感とはほど遠いペースだ。
途中からセンター長の松本さんも作業に加わった。休憩後、彼にスコップを渡し、土のう袋を支え、結び、斜面まで運ぶ役割をやる。
吐く息はますます荒くなり眼鏡は曇りまくったが、体はスムーズに動く。まったく意識せず動きがつながり、全体の一部として動く快さを味わう「フロー状態」が訪れた。毎週やってきた体力系ボランティアだが、ただ無心に動くことはあっても、この状態を味わったことは思い出せる限りではほとんどない。
一人で斜面に土のうを積んでいる彼は、野口君だ。
普段はアメリカ北東部で仕事をしているが、年1回の休暇で帰国した。3月11日以降日本へ戻るのは初めてで、立川の実家に顔を出した後、被災地で何かしたいと思って南相馬に来たという。元ラグビー部、疲れを知らない男。
震災後の岩手・宮城・福島には、本当に多彩な、誇らしい奴ら(失礼)が来ている。
ぼくらは夕方の福島駅行きバスに乗る。そろそろ終了時間が迫っていた。
残り時間10分というタイミングで松本さんから声がかかり、2人で別の場所へ向かう。田んぼ脇の斜面に湧き水でできた水溜まりがあり、その水を抜くための簡易水路を以前ボランティアたちで作った。が、補強用の土のうに車が乗り上げたらしく、破裂した土のうが水路を塞いでしまっていた。代わりに新たな水路を作るべく、剣スコップを振るうことになった。本当に今年最後のミッション。
作業場所に向かうとき犬の散歩中の農家のおばあさんと行き会い、かけられた「ありがとうね」という言葉と笑顔。松本さんと作業しながら話した内容。最後まで手強かったヘドロの粘りと重さ。それらの出来事と、「今年は未曾有の災害が起こって、被災地ボランティアに没頭した1年だった。そしてこれは自分の最後の作業なんだ」という思いがパラレルに走っていて、現実感が乏しい夢のような時間だった。
これ(写真)が今年最後のぼくの作品(?)だ。
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仲町センターに残る人たちに別れを告げ、南相馬市役所前から福島交通バス(南相馬~川俣・福島線)に乗って福島駅へ。
福島駅前には、巨大なクリスマスツリーのイルミネーションが経っていた。
“こちら側”に帰ってきたと感じたのは、駅内のレストランで入ったトイレがあまりにも綺麗なので驚いたときだ。
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「あきらめなければなんとかなるサ」。
南相馬でボランティアを続けるNさんのキャップに手書きされていたメッセージを改めて振り返る。
たった3日間だが、震災と津波の被害を大きく上回る原発災害にも苛まれる南相馬の現実は重かった。戻った直後は、極端な考えばかりが浮かんでしまい、このブログを書くのもなかなか辛かった。
南相馬のことは忘れない。福島にはまた来年必ず行く。
そして、自分ができることをやるつもりだ。




































中野さんいつも拝見しています。レーベン号には2度つくばから参加しました。ブログを読む度にボランティアへ思いが募ります。
しかしながらつくば着が日曜早朝となり、行きは東京中継、帰りはつくば終着に変わって移動時間を思うと厳しいところです。
着時間変更は父と一緒に参加しようとしていた矢先でした。
レーベンさん、つくばのみ発着だと厳しいのですかね。
集まる人間、道具、参加費等を含めてレーベン号は最高です。
黒沢牧子
2012年1月1日
あけましてお目出度うございます. 去年は本當にご苦勞樣でした.この度の三日間ナ力ノ樣はよく續いてがんばりましたね.そして被害地の事詳しく讀まして頂きまして有難度うございました. 今年も良ろしくお願い致します
akitsai
2012年1月3日
コメントありがとうございます。お陰様で正月はゆっくり休めました。
今年もよろしくお願いいたします。
nakano
2012年1月4日